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第十九話 仏像の歴史(4)鎌倉仏とその後

鎌倉時代は、貴族文化から武士の文化への転換であり、

その文化には質実剛健な気風があふれます。

また,宋,元との交流によりもたらされた様々な文化が

それに影響を与えます。

仏像の作風にもこれらの影響は如実に現れ,

鎌倉仏と言われます。

この時代を代表する仏師と言えば,

慶派の仏師の名があげられることになります。 

慶派は,興福寺お抱えの仏師として

「奈良仏師」とも呼ばれ,

奈良を地盤とし天平時代の古典彫刻に接しながら,

東大寺,興福寺の復興を支え,

また鎌倉を中心とした東国武士の需要に応えます。

慶派の代表的な仏師の康慶は

二人の有能な弟子を育てます。

運慶と快慶です。

康慶の実子である運慶は、

写実性にすぐれた力強い造形で知られます。

快慶は,運慶と二人で東大寺南大門の仁王像を造ります。

その際,運慶の実子湛慶と定覚もこれに協力しています。


しかし,鎌倉時代を過ぎると,

新しい仏が造られることはあまりなくなります。

南北朝時代では,

作風もそれまでの厳しさ,逞しさがなくなり,

丸くのんびりとしたものになってゆき、

室町時代や戦国時代,

江戸時代等にはこれといった仏師は出現しませんでした。 

わずかに円空や木食もくじき

特徴のある独自の作風で名を残している程度です。

これはどうしてでしょうか?

それには仏教の変化,流行が

大いに関係していると言われています。


鎌倉時代に仏教は文字どうり百花繚乱の様相を呈しますが,

法華経といった経文自体が礼拝の対象となったり,

禅宗のように自力で仏になるべく修業する,

といった宗派が隆盛を向かえます。

そこでは礼拝の対象としての仏像は顧みられなくなります。

そうなれば仏師は必要とされません。

南北朝以降仏師が育たなかったのは,

仏像の需要が極端に減少したからだと言うのが

一般的な見方でのようです。

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