第二十話 閻魔様と十王思想
先日から、なんとなく死というものを考えるようになりました。
別に厭世的になっているわけではないのですが、
お寺巡りや、古墳などばかりを回っていると
死は遠くのものではなく、
身近なものとして考えるようになります。
特に16日は閻魔大王の縁日で、
閻魔様を祀る奈良の白毫寺の
『閻魔もうで』に行ってきましたが、
奈良や京都では閻魔様を祭ってあるお寺は結構あります。
関東よりは閻魔様の存在感はあるような気がします。
閻魔様はもとは、ヒンドゥー教の神様で、
死後の世界の王様でした。
閻魔様が唐の時代の役人の服装をしているのは、
仏教が中国を経由するとき、
道教の影響を受けた為だと言われています。
ところで十王思想というのを御存知でしょうか?
十王とは、道教や仏教で、地獄において
亡者の審判を行う裁判官です。
この思想によれば、人間を初めとするすべての衆生は、
没して後、七日ごとにそれぞれ
秦広王(初七日、不動明王)・初江王(十四日、釈迦如来)
・宋帝王(二十一日、文殊菩薩)・五官王(二十八日普賢菩薩)
・閻魔王(三十五日地蔵菩薩)・変成王(四十二日弥勒菩薩)
・泰山王(四十九日薬師如来)の順番で一回ずつ審理されるというのです。
ただし、各審理で問題がないと判断されたら
次からの審理はなく、
抜けて転生していくため、
七回すべてやるわけではないそうです。
一般には、五七日の閻魔王が最終審判となり、
ここで死者の行方が決定されます。
これを引導(引接)と呼び、
「引導を渡す」という慣用句の語源となりました。
しかし七回の審理で決まらない場合もあり、
追加の審理が三回、平等王(百ヶ日忌観音菩薩)
・都市王(一周忌勢至菩薩)
・五道転輪王(三回忌阿弥陀如来)
となることもあるそうです。
ただし、七回で決まらない場合でも
六道のいずれかに行く事になっており、
追加の審理は実質、救済処置です。
もしも地獄道・餓鬼道・畜生道の三悪道に
落ちていたとしても助け、
修羅道・人道・天道に居たならば
徳が積まれる仕組みとなっているそうです。
なお、仏事の法要は大抵七日ごとに七回あるのは、
審理のたびに十王に対し死者への減罪の嘆願を行うためで、
追加の審理の三回についての追善法要は
救い損ないをなくすための受け皿として機能していたようです。
十王の裁判の裁きは
特に閻魔王の宮殿にある
「浄玻璃鏡」に映し出される「生前の善悪」を
証拠に推し進められますが、
ほかに「この世に残された遺族による
追善供養における態度」も「証拠品」とされるというから大変です。
カッコ内の仏がそれぞれの本地仏で、
追善供養にはその仏様に対して行うのが正しいとされます。
この思想は、
平安末期に仏教由来の末法思想や
冥界思想と共に広く浸透したらしく、
鎌倉時代には十王をそれぞれ十仏と相対させるようになり、
江戸時代には十三仏信仰なるものも生まれるに至ったということです。
十三仏信仰の審理では更に
三回の追加審理があるというから遺族も大変です(七回忌・十三回忌・三十三回忌)。
江戸時代には、村々に閻魔堂ができ、
閻魔像や浄玻璃鏡、業秤などがおかれていたそうです。
そして正月とお盆月の十六日は
閻魔の縁日で地獄の死者の宥恕される日で
薮入りといって年に2度の里帰りを楽しみにしたものです。
しかし時代も変わりました。
現代では、追善法要も簡略化され、
通夜・告別式・初七日の後は四十九日まで
法要はしないことが多くなっているようです。
また私の子供のころは大人から、
「嘘をついたら閻魔様に舌を抜かれる」と脅かされたものでしたが、
現代では、
そんなことを言う大人はもう絶滅したのではないでしょうか。
むしろ平気で嘘をつく方が
大臣になったりしている世の中ですから、
もう一度閻魔様に復活して欲しいと願うのは私だけでしょうか?




