皮算用
「許せぬ! 断じて許せぬぞ!」
男爵の怒声が、屋敷の一室に響き渡った。
その手には、一通の書状が握りしめられている。
ロラン伯爵から届いた返書であった。
事の発端は、男爵領から逃げ出した領民たちである。
男爵は、逃亡した領民を連れ戻すため兵を差し向けた。ところが、ロラン伯爵の兵が領境を越えて介入し、男爵の兵を斬り捨てたのである。
領民を奪われ、兵まで失った。
男爵にとって、それは財産を力ずくで奪われたことにほかならなかった。
当然、ロラン伯爵に抗議の書状を送った。
しかし、返ってきた言葉は謝罪でも賠償の申し出でもなかった。
『まずは貴領の制度を見直されよ』
ただ、それだけであった。
「盗賊めが! 人の財産を奪っておきながら、何たる言い草!」
男爵は書状を机に叩きつけた。
とはいえ、相手は伯爵である。
下級貴族にすぎない男爵が、単独で対抗できる相手ではなかった。
そこで男爵は、自らの上位貴族であるバルドー伯爵を頼ることにした。
バルドー伯爵は、ロラン伯爵とは長年折り合いの悪い人物であった。
男爵は、そのことをよく知っていた。
そして数日後。
男爵はバルドー伯爵の屋敷を訪れていた。
「……ほう。ロランの兵が、そなたの領内へ踏み込んだと?」
「左様でございます!」
男爵は身を乗り出した。
「我が領民を奪い、取り戻そうとした兵を斬り捨てたのでございます! それだけではございません。この返書をご覧ください!」
差し出された書状に、バルドー伯爵は目を通した。
その眉が、わずかに動く。
(これは……)
ロランの兵が他領へ越境し、兵士を殺害した。
しかも抗議に対して、謝罪どころか領地の制度を改めよと要求している。
(愚かなロランめ。とうとう尻尾を出しおったか!)
長年目障りだった政敵を追い落とす、またとない好機である。
しかし、伯爵は喜びを顔に出さなかった。
「ふむ……これは由々しき事態じゃな」
「おお! では、お力添えを!」
「無論じゃ。そなたの財産を力ずくで奪ったとなれば、見過ごすわけにはいくまい」
「まさしく! ロランのやっておることは盗賊と変わりませぬ!」
男爵は何度も頷いた。
バルドー伯爵は、ゆっくりと茶を口へ運んだ。
「しかしな、相手は伯爵じゃ。王都の貴族どもを動かすとなれば、相応の費用がかかる」
「費用……でございますか?」
「当然であろう。そなたのために、わしが持ち出しをするわけにもいくまい」
男爵の顔が曇った。
「し、しかし、我が領も兵を失い、決して懐に余裕があるわけでは……」
「愚か者め!」
伯爵は呆れたように首を振った。
「そなた、何も分かっておらぬな」
「は……?」
「ロランの非は明白じゃ。賠償は金子だけとは限らぬぞ」
伯爵は男爵を見据えた。
「領地の一部を割譲させることとて、夢ではあるまい」
「りょ、領地を……?」
「そうじゃ。さすれば、そなたが今差し出す金など、あっという間に元が取れる。それどころか、何倍もの利権と領地が手に入るのじゃぞ」
男爵の目が大きく見開かれた。
領地。
その言葉が、男爵の胸を強く打った。
失った領民や兵のことなど、たちまち頭の隅へ追いやられていく。
「ま、まことに、そのようなことが……?」
「なぜできぬと思う? 他領へ兵を送り、兵士を斬ったのじゃ。しかも謝罪すらせぬ。これほど都合のよい話があるか?」
伯爵は口元を歪めた。
「死んでくれた兵士どもに、感謝せねばならぬな」
一瞬、男爵は目を丸くした。
だが、すぐに笑みを浮かべた。
「ははは! まことに! あやつらも死んだ甲斐があったというものですな!」
二人の笑い声が部屋に響いた。
そこには、死んだ兵士を悼む者など一人もいなかった。
⸻
バルドー伯爵の動きは早かった。
男爵から多額の金子を受け取ると、すぐさま王都へ向かったのである。
まずは国王への謁見を求めた。
しかし、それは叶わなかった。
国王が一介の伯爵同士の争いに、直接耳を傾けることはなかったのである。
だが、バルドー伯爵にとって、それは大した問題ではなかった。
王都には、いくらでも金で動く者がいる。
法衣貴族たちである。
伯爵は宴席を設け、贈り物を配り、時には人目につかぬ場所で金貨の詰まった袋を渡した。
そして、ロラン伯爵による越境攻撃の非を説いて回った。
もちろん、話そのものが嘘というわけではない。
実際にロランの兵は領境を越え、男爵の兵を斬っている。
だからこそ、法衣貴族たちも反論しにくかった。
「伯爵が他領へ兵を送り込むなど、許されることではございませんな」
「しかも謝罪を拒んだとか」
「王国の秩序に関わる問題ですぞ」
金を受け取った貴族たちは、次々と声を上げた。
こうして、ロラン伯爵への非難決議がまとめられた。
さらにバルドー伯爵は、宰相への働きかけを続けた。
宰相にしてみれば、ロラン伯爵と男爵の争いなど、本来は些末な問題である。
しかし、法衣貴族たちが揃って問題視し、越境攻撃の証拠まで示されている以上、放置するわけにもいかなかった。
やがて、宰相の承認によって、ロラン伯爵を王都へ召喚することが決まった。
バルドー伯爵は、屋敷へ戻るなり男爵を呼び寄せた。
「くくく……これでロランも終わりじゃ」
伯爵は上機嫌で杯を傾けた。
「おお! ついに!」
「王都へ出てくれば、わしが金を配った貴族どもとの裁きが待っておる。あやつに勝ち目などない」
「降爵に減領……まこと、楽しみでございますな!」
「うむ。あとは、どの領地を取り上げるかじゃ」
二人は顔を見合わせて笑った。
だが、男爵はふと不安になった。
「しかし、伯爵様。もしロランが召喚に応じなかった場合は?」
伯爵は鼻を鳴らした。
「その方が、もっと楽じゃ」
「と、申されますと?」
「王都からの召喚を無視したとなれば、王国の権威に逆らったも同然。もはや遠慮はいらぬ」
伯爵は机の上に広げられた地図を指差した。
「ロラン領を潰せばよい」
「おお……!」
「領地を欲しがる貴族どもを先頭に立て、わしとそなたの軍で踏み潰す。それで終わりじゃ」
男爵は何度も頷いた。
しかし、まだ一つ気になることがあった。
「ただ……ロラン伯爵は、真田なる者と戦の最中と聞いておりますが……」
「それがどうした?」
「真田が介入してくることはございませぬか?」
伯爵は声を上げて笑った。
「ははは! 何を恐れる!」
杯の酒を一気に飲み干す。
「真田とて手一杯であろう。王国の内輪揉めにまで首を突っ込む余裕などあるまい!」
「なるほど! ごもっともでございます!」
「ロランめ。真田との戦で疲弊しているところへ、この騒ぎじゃ。まったく、運のない男よ!」
再び二人の笑い声が響いた。
彼らは知らなかった。
そのロラン伯爵が、すでに真田幸村へ臣従していることを。
⸻
場所は変わり、ロラン城。
執務室の一角で、ロラン伯爵は一通の書状を手にしていた。
王都から届いた召喚状である。
「……なるほど。あの男、我が政敵であるバルドー伯爵に泣きついたのでありますな」
向かいの椅子に座っていた佐助が、ケラケラと笑った。
「ははは! ロラン殿は運が良いな!」
「運が良い、でございますか?」
「そうじゃ。早速、真田への忠義をお見せできるではないか!」
佐助は楽しそうに続けた。
「今や雪崩のように、王国貴族が殿へ臣従を申し出ておる。誰が使える者か、殿も見極めねばならん。そのような時に、向こうから喧嘩を売ってくるとはな!」
「なるほど……確かに、好機でございますな」
ロランも薄く笑った。
「もっとも、一応の返書は出してあります」
「ほう?」
「越境した当の指揮官は、すでに我が家を解雇し、領外へ追放したと伝えてあります。今や我が家とは無関係の者。捕らえるなり何なり、好きにするようにと」
佐助は一瞬きょとんとした後、腹を抱えて笑い出した。
「はははは! そりゃ傑作だ!」
「何かおかしなことでも?」
「いやいや! それで相手の顔が立ったとは、とても言えんわな!」
「承知しております」
ロランは落ち着いた様子で答えた。
「しかし、形式は踏みました。兵を処分した以上、こちらが何も対応しておらぬとは言わせませぬ」
「なるほどな。まあ、それで全部の責任が消えるわけでもあるまいが」
「無論です。ですが、向こうの望みが謝罪や賠償だけではないことは、よく分かっておりますので」
佐助はニヤリと笑った。
「やはりロラン殿も、そう見るか」
「バルドーは昔から私を目の敵にしておりました。あの男が、この程度で矛を収めるはずがありませぬ」
ロランは召喚状を机に置いた。
「となれば、あとは戦でございましょうか」
「おそらくな」
佐助はあっさり頷いた。
「殿からも話は聞いておる。臣従した貴族どもの兵を使ってよいとのことじゃ」
「ほう……!」
「ロラン殿の腕前を見せてもらおう、との仰せじゃ!」
ロランは姿勢を正した。
「それは……身に余る光栄」
「いやいや、光栄だけでは済まんぞ。殿は使える者には仕事を任せる御仁じゃ。期待に応えねば、次はないかもしれん」
「望むところでございます」
ロランの目に、強い光が宿った。
「この身、すでに真田様へお預けしております。必ずや、ご期待に応えてみせましょう」
「うむ!」
佐助は満足げに頷いた。
「ただし、俺の甲賀衆は使ってくれ。諜報、破壊工作、敵の動きを探ることまで、何でもござれじゃ!」
「それは心強い。ぜひ、お力をお借りしたい」
「遠慮はいらん。殿の軍じゃからな!」
ロランは、そこでふと首を傾げた。
「ところで、猿飛殿ご自身は?」
「俺か?」
「これほどの戦となれば、猿飛殿にもお力添えいただきたいところですが……」
佐助は肩をすくめた。
「悪いな。俺は別の仕事がある」
「別の仕事?」
「ああ。殿の命で、王都へ潜入することになっておる」
ロランは目を見開いた。
「王都へ? 今回の召喚の件でございますか?」
「いや、そっちとは別件じゃ」
佐助は椅子の背にもたれ、楽しそうに笑った。
「ちょいと、会ってみたい御仁が二人ほどおってな」
「ほう……どなたで?」
「一人は、殿に文を寄越した賢者じゃ」
「賢者……!」
「どんな人物か、この目で確かめる。良き御仁なら、真田へお迎えしたいとのことじゃ」
「なるほど。では、もう一人は?」
佐助は笑みを深めた。
「王国の騎士団長じゃ」
ロランは思わず身を乗り出した。
「騎士団長を!? あの剣聖をですか!」
「そうじゃ。殿がどうしても一度、人物を見極めたいと仰せでな」
「しかし……あの方は王家への忠義が厚いと聞きます。容易なことではありますまい」
「だろうな」
佐助はあっけらかんと答えた。
「だから、まずは会ってみるのさ。話の分からん御仁なら、それまで。だが、殿の下で働くに値する人物なら、何とかして口説いてみる」
「……真田様は、そこまでお考えなのですな」
ロランは感心したように呟いた。
佐助は立ち上がった。
「ま、ロラン殿もそのお一人じゃろ?」
「はは……これは一本取られましたな」
「それじゃ、戦の方は頼みますぞ!」
「承知いたしました。猿飛殿も、どうかお気をつけて」
佐助は片手をひらひらと振った。
「なあに、王都へ忍び込むだけじゃ。俺にとっちゃ、散歩みたいなもんさ!」
そう言って、部屋を後にする。
残されたロランは、机の上の召喚状へ視線を落とした。
バルドー伯爵。
長年の政敵は、今頃、自分の勝利を確信していることだろう。
ロランは静かに笑った。
「さて……真田様のご期待に、応えねばなりませぬな」
そして、召喚状を脇へ置き、従者を呼んだ。
「諸将を集めよ。軍議を開く」
王都では、バルドー伯爵がロランの領地を奪う算段をしていた。
ロラン城では、その伯爵を迎え撃つための準備が始まっていた。
そして猿飛佐助は、二人の人物を見極めるため、王都へ向かおうとしていた。




