賢者
王都。
王国の政治、経済、文化の中心地。
その巨大な城壁を見上げ、猿飛佐助は感心したように口笛を吹いた。
「へえ、こいつは大したもんだ」
高くそびえる城壁。
巨大な城門の前には、各地から集まった商人たちの馬車が長い列を作り、旅人や傭兵、行商人たちがひっきりなしに出入りしている。
佐助も旅の商人に扮し、何食わぬ顔で城門をくぐった。
「さてさて、王国の都ってのは、どんなところかねえ」
城門を抜けると、そこには想像以上の光景が広がっていた。
美しく敷き詰められた石畳。
立ち並ぶ豪華な商館。
色鮮やかな衣装をまとった貴族たち。
噴水のある広場では楽師が音楽を奏で、露店には見たこともない果物や菓子が並んでいる。
「こりゃまた、ずいぶん景気がよさそうじゃねえか」
佐助は感心しながら歩いた。
だが、大通りを一本外れたところで、その表情が変わった。
建物は急に古び、道端には痩せた子供たちが座り込んでいる。
汚れた服を着た老人が物乞いをしていたが、通り過ぎる人々は見向きもしない。
少し先では、首輪をつけた奴隷たちが重い荷車を引かされていた。
「……なるほどねえ」
佐助は小さく呟いた。
表通りの華やかさとは、まるで別の街だった。
そのときである。
「おい、そこの兄ちゃん!」
背後から声をかけられた。
振り向くと、薄汚れた男が三人、道を塞いでいた。
一人は短刀を手にしている。
「金を出しな」
「……は?」
佐助は思わず間の抜けた声を上げた。
「聞こえなかったのか? 持ってる金を全部出せって言ってんだよ!」
男が短刀を突きつけてくる。
佐助は男の顔を見た。
次に短刀を見た。
そして、周囲を見回した。
通行人たちは目を逸らし、足早にその場を離れていく。
近くの店では、店主が慌てて扉を閉めた。
誰一人、騒ぎを止めようとはしない。
「……おいおい、冗談だろ?」
「何がだ!」
「いや、こっちの話」
佐助は頭を掻いた。
これまで数え切れないほどの街や村を訪れてきた。
貧しい村もあった。
治安の悪い街もあった。
だが、昼間の往来で、いきなり短刀を突きつけられたことなど一度もない。
しかも、周囲の人間は見て見ぬふりだ。
「兄ちゃん、いい加減にしろよ!」
男が苛立ち、短刀を振り上げた。
次の瞬間。
「ぐえっ!」
男の身体が宙を舞った。
佐助は軽く身をかわし、男の腕を取って投げ飛ばしただけだった。
「なっ!?」
残る二人が目を見開く。
「おっと、やめときな。俺は今、機嫌が悪いんだ」
佐助が笑う。
その笑顔を見た二人は、倒れた仲間を引きずるようにして逃げていった。
「ったく、何なんだよ、この街は」
佐助は呆れたように呟いた。
しかし、周囲の人々は何事もなかったかのように歩き始めている。
誰も佐助に声をかけない。
それどころか、目が合いそうになると、慌てて顔を背けた。
「……そういうことか」
佐助の笑みが消えた。
人々は強盗に慣れている。
他人の揉め事に関われば、自分まで危険な目に遭うと知っている。
助けを求めても、誰も助けてくれない。
だから、自分も誰かを助けない。
そんな暮らしが、当たり前になっているのだ。
「こりゃ、ひでえな……」
佐助は再び大通りへと戻った。
そこでは相変わらず、美しい衣装をまとった貴族たちが笑い、商人たちが威勢のよい声を上げている。
華やかな王都。
そのすぐ裏側にある、荒れ果てた暮らし。
「……殿が見たら、何て言うかねえ」
佐助は遠くにそびえる王城を見上げた。
少しばかり悪党を捕まえたところで、どうにかなるものではない。
街そのものを変えなければならない。
「さて……こんな国を見限った賢者様ってのは、どんな御仁なんだろうねえ」
佐助は懐から一枚の紙を取り出した。
そこには、王都にある公爵邸の場所が記されていた。
「まずは、ご挨拶といきますか」
そう呟くと、人混みの中へと歩き出した。
⸻
王都の中心部には、一般市民の立ち入りを厳しく制限された区域があった。
貴族街である。
高い石壁に囲まれたその一角には、王国の有力貴族たちが屋敷を構えている。
入り口には武装した衛兵が立ち、出入りする者の身分証や通行許可証を確認していた。
「へえ、ずいぶん厳重じゃねえか」
少し離れた場所から様子を眺めていた佐助は、感心したように呟いた。
つい先ほどまで歩いていた庶民街では、昼間から強盗が現れたというのに。
こちらには、これほど多くの衛兵が配置されている。
「守るところが違うんじゃねえの?」
佐助は苦笑した。
もっとも、そんなことを考えていても仕方がない。
佐助はすぐには門へ向かわず、近くの露店で飲み物を買った。
商人たちの荷馬車が出入りする様子を眺めながら、衛兵の動きを確かめる。
荷を改める者。
書類を確認する者。
そして、交代の時間。
しばらくして、佐助は飲み物を飲み干した。
「……なるほどね」
懐から一枚の書類を取り出す。
王都に入ってから調達した紙と印章の写しを使い、商会の通行許可証に仕立てたものだった。
佐助は何食わぬ顔で門へ向かった。
「止まれ。身分と用件を」
「商会の使いだ。公爵家に届け物があってね」
佐助は書類を差し出した。
衛兵は受け取ると、じっくりと目を通した。
「……ふむ」
別の衛兵が佐助の荷物を調べる。
「書状だけか?」
「ああ。急ぎの届け物なんでね」
書類を確認していた衛兵が顔を上げた。
「よし、通れ」
「ご苦労さん」
佐助は軽く手を振り、門をくぐった。
表情一つ変えなかったが、内心では少し感心していた。
書類の確認も荷物の検査も、決しておざなりではない。
ただ、彼らが探しているのは、武器や不審な荷物を持ち込もうとする者だ。
本物そっくりの書類を用意し、商人として振る舞う者までは想定していないらしい。
「ま、こんなもんか」
貴族街の景色は、先ほどまでの庶民街とはまるで違っていた。
道は美しく整備され、両脇には手入れの行き届いた庭園が続く。
豪華な馬車が行き交い、立派な屋敷が並んでいる。
道端に物乞いの姿はなく、強盗など現れそうもない。
「同じ街とは思えねえな」
佐助は呆れたように呟いた。
やがて、目的の屋敷が見えてきた。
高い塀に囲まれた、ひときわ大きな邸宅。
王国の公爵にして、かつて諸国にその名を轟かせた魔法の使い手。
賢者と呼ばれる男の住まいである。
「さて、こっからが本番だな」
佐助は正門を見やった。
衛兵が数名。
庭にも巡回する兵の姿がある。
「……ま、正面から入る必要もねえか」
佐助は屋敷の周囲をゆっくりと歩いた。
巡回する衛兵の人数と間隔。
屋敷の窓の位置。
使用人たちが出入りする裏口。
一通り確かめると、人目のない路地へ入った。
次の瞬間、その姿が消えた。
高い塀を音もなく越え、庭木の陰へ降り立つ。
巡回する衛兵の足音を聞き分け、死角を縫うように進んでいく。
窓から屋敷へ入り込むと、使用人たちの動きに合わせて廊下を移動した。
誰にも気づかれない。
少なくとも、佐助にはそう思えた。
「さて、賢者様のお部屋はどこかねえ」
やがて、ひときわ重厚な扉の前にたどり着いた。
廊下の装飾や扉の造りからして、屋敷の主人の部屋に違いない。
「……ここか」
室内の気配を探ろうとした、そのときだった。
ガチャリ。
突然、扉が開いた。
「!」
佐助は反射的に身構えた。
だが、現れたのは武装した兵士ではなかった。
年配のメイドである。
メイドは佐助を見ると、驚くどころか、丁寧に頭を下げた。
「お待ちしておりました」
「……へ?」
「旦那様がお待ちでございます。どうぞ、こちらへ」
メイドは何事もなかったように扉を開け放ち、佐助を室内へと促した。
佐助は思わず廊下を振り返った。
誰もいない。
「……俺のこと?」
「はい。真田様からのお客様でございましょう?」
「…………」
佐助はしばらく黙っていた。
そして、頭を掻いた。
「おいおい、勘弁してくれよ」
忍び込んだはずだった。
衛兵にも使用人にも気づかれていない。
それなのに、屋敷の主人は佐助が来ることを知っていたというのか。
「……こいつは、ちょいと面白くなってきたな」
佐助はニヤリと笑った。
「じゃ、お邪魔しますよっと」
⸻
部屋の壁一面を埋め尽くす書物。
机の上には見慣れぬ魔道具が並び、部屋の奥では一人の老人が椅子に腰掛けていた。
老人は手にしていた書物を閉じ、佐助を見た。
「よく来られた。真田殿の使いとお見受けするが?」
「へえ、そこまで分かってるのかい」
佐助は感心したように笑った。
「真田幸村様の家臣、猿飛佐助ってもんだ。よろしく頼むぜ」
「ほう、猿飛佐助殿か」
老人はゆっくりと立ち上がった。
「わしはアルベール・ドゥ・ラヴァル。正式な名はもう少し長いのだがな」
老人は愉快そうに笑った。
「アルベールと呼んでくれ」
「そいつは助かる。長ったらしい名前は苦手でね。よろしくな、アルベールさん」
「はっはっは! 面白い男だな、そなたは!」
アルベールは佐助に椅子を勧めた。
「それにしても、ずいぶん変わった入り方をされたようだな」
「ははっ、そいつは失礼したね。正面から入ったら、面倒そうだったもんでさ」
「まったく。真田殿の家臣というのは、皆そのような者なのか?」
「いやいや、俺はまだ大人しい方だぜ」
佐助は悪びれもせずに答えた。
そして、ふと思い出したように口を開く。
「そういや、アルベールさん」
「何かな?」
「王都に入ってから、ずっと俺を見てる目があったんだが……やっぱり、あんたの手の者だったか」
アルベールの眉がわずかに動いた。
「最初は殺っちまおうかとも思ったんだけどよ。どうも殺気がねえ。こっちの動きを見てるだけだったんで、思い止まったんだ」
佐助はニヤリと笑う。
「いやあ、殺らなくてよかったぜ。あんたの部下だったんじゃ、初対面から気まずくなるところだった」
一瞬の沈黙。
やがてアルベールは、愉快そうに笑い出した。
「はっはっは! これは驚いた!」
「何がだい?」
「かなり腕利きの斥候を出したつもりだったのだが……気づかれておったか!」
「まあね。あれだけ長いこと見られてりゃ、嫌でも気づくさ」
佐助は肩をすくめた。
アルベールは感心したように頷いた。
「あの者は戦場でも幾度となく敵陣を探り、無事に帰ってきた男でな。そう簡単に気配を悟られる者ではないのだが」
「へえ、そいつは大したもんだ」
「しかも、気づきながら手を出さなかったとはな」
「敵か味方かも分からねえ相手を、片っ端から殺してたら仕事にならねえよ」
「なるほど。腕だけでなく、頭も回るというわけか」
アルベールは満足そうに微笑んだ。
「真田幸村殿は、よい家臣をお持ちのようだ」
「そいつはどうも」
佐助は笑った。
「で、アルベールさん。俺の方も一つ聞いていいかい?」
「何かな?」
「どうして俺が真田の使いだと分かった?」
「ふむ。わしが真田殿に文を送ったのは知っておろう?」
「ああ」
「返事があるなら、まず使いの者が来ると考えてな。真田の地から王都へ向かう街道を、調べさせておったのだ」
「なるほどねえ」
「そこで、商人にしては妙に身のこなしのよい男がいると報告があってな」
「……そいつが俺かい」
「そういうことだ」
アルベールは笑った。
「もっとも、真田の使いと確信したのは、そなたがこの屋敷を探り始めてからだがな」
佐助は思わず吹き出した。
「ははっ! こりゃ一本取られたね!」
「いやいや。屋敷の警備を抜けられたのはこちらの失態だ」
アルベールは愉快そうに肩をすくめた。
「もっとも、途中からは止めずに通すよう伝えておいたがな」
「……やっぱりか」
佐助は苦笑した。
「どうも妙だと思ったぜ。公爵様の屋敷にしちゃ、奥へ進むほど人が少なかったからな」
「はっはっは! そこまで気づいておったか!」
二人は顔を見合わせて笑った。
だが、佐助は内心で舌を巻いていた。
この老人は、ただの魔法使いではない。
情報を集め、人を動かし、相手の力量まで見極めようとしている。
かつて戦場を駆けた賢者。
その名は伊達ではないらしい。
⸻
「さて、佐助殿。一つ聞いてもよいかな?」
アルベールはメイドが運んできた茶を口にすると、静かに尋ねた。
「何だい?」
「この王都を見て、どう思われた?」
佐助は茶を飲もうとした手を止めた。
「……そうだな」
少し考えた後、いつもの軽い笑みを消した。
「腐ってるね」
アルベールは黙って佐助を見つめた。
「いや、王都だけじゃねえ。この国そのものが腐ってる」
「……ほう」
「俺はこれまで、いろんな街や村を見てきた。ひでえ領主もいたし、貧しい暮らしをしてる連中もいた。だが、王都は別格だ」
佐助は窓の外へ目を向けた。
「昼間っから強盗が出る。周りの連中は誰も助けようとしねえ。貴族街の入り口には山ほど兵隊がいるくせに、庶民の暮らす場所じゃ、誰も守ってくれねえんだ」
「…………」
「こりゃ、悪党を何人捕まえたってどうにもならねえよ。国の仕組みそのものが腐っちまってる」
アルベールはしばらく黙っていた。
やがて、小さく頷いた。
「……その通りだ」
その声には、深い疲労が滲んでいた。
「では、もう一つ尋ねよう。真田幸村殿とは、どのような人物なのかな?」
「ん?」
佐助はアルベールを見た。
「真田殿の噂は、わしの耳にも届いておる。だが、噂というものは当てにならぬ。実際に仕える者の言葉を聞きたいのだ」
「なるほどねえ」
佐助は少し笑った。
「そいつは、自分の目で確かめてくれ」
「……何?」
「俺があれこれ言うより、あんた自身の目で殿を見てくれ。その方が早いぜ」
アルベールは目を丸くした。
「ほう……それはまた、随分と思い切ったことを言う」
「下手に俺が説明したら、あんたも色眼鏡で殿を見るだろ?」
「確かにな」
「だから、何も知らねえまま会ってほしいんだ。会って、話して、自分で判断してくれ」
アルベールは佐助をじっと見つめた。
「……よほど主君を信じておるのだな」
「まあね」
佐助はそれ以上、何も語らなかった。
アルベールは愉快そうに笑った。
「はっはっは! これは参った。ますます真田殿に会ってみたくなったぞ」
「そいつはよかった」
佐助も笑った。
そして、今度は佐助が尋ねた。
「じゃあ、今度は俺から質問だ」
「うむ」
「アルベールさん。あんた、どうして殿に手紙なんか寄越したんだ?」
アルベールの笑みが、静かに消えた。
「……そうだな」
老人は椅子に深く腰掛け、しばらく考え込んだ。
「わしはな、先王陛下の理想に共鳴しておった」
佐助は黙って耳を傾けた。
「陛下は、この国を誰もが安心して暮らせる国にしたいと願っておられた。わしも、その理想を信じた」
アルベールはゆっくりと語り始めた。
「戦場にも立った。幾度となく命を懸けた。あの方の目指す国を作るためなら、この命など惜しくはなかった」
その目には、かつての戦場を思い出すような光が宿っていた。
「だが……」
アルベールは言葉を切った。
「今の王国を見よ。あの方が目指された国の面影など、もはやどこにもない」
「…………」
「貴族は私腹を肥やし、民は虐げられ、王宮では権力争いばかりが繰り返されておる」
アルベールは静かに首を振った。
「この国は、もう終わっておるのだ」
佐助は何も言わなかった。
アルベールは窓の向こう、遠くにそびえる王城を見つめた。
「わしは、あの方と共にこの国を築いてきた」
その声が、わずかに低くなった。
「だからこそ、責任がある」
「責任?」
「うむ」
アルベールは佐助へ向き直った。
「先王陛下が築かれた国が、ここまで腐り果ててしまったからには……」
一呼吸置き、はっきりと言った。
「この国を終わらせるのも、わしの仕事である故」
佐助は目を細めた。
目の前の老人は、ただ王国に失望しているのではない。
自らが命を懸けて守ってきたものを、自らの手で終わらせようとしている。
その覚悟は、並大抵のものではなかった。
しばらく、二人の間に沈黙が流れた。
やがて佐助が口を開いた。
「……なるほどねえ」
アルベールは静かに佐助を見た。
「どうやら、あんたも相当な頑固者らしいな」
「……そうかもしれぬな」
アルベールは小さく笑った。
その笑顔には、どこか寂しさが滲んでいた。
「それで、アルベールさん。真田の地を見たいって話は、今も変わらねえのかい?」
「無論だ」
アルベールは頷いた。
「わしは、この国に代わる新たな秩序が生まれるのであれば、それをこの目で確かめたい」
「なるほどねえ」
「だが、真田殿がその器であるかどうかは、まだ分からぬ」
「そりゃそうだ」
佐助は笑った。
「だから、自分で見てくれって言ったんだよ」
アルベールも笑った。
「はっはっは! まったく、面白い男だ」
「じゃあ、殿にはそう伝えとくよ。賢者様が真田の地を見に来たがってるってね」
「うむ。頼むぞ」
⸻
「さてと……」
佐助は残っていた茶を飲み干すと、ゆっくりと立ち上がった。
「じゃあ、次は剣聖様のところへ顔を出してくるかな」
その言葉を聞いたアルベールは、わずかに眉をひそめた。
「……あやつは無理だぞ」
「ん?」
「あやつを真田殿の配下に迎えようというのであろう?」
「まあ、そんなところだね」
「無理だ。あやつは決して王国を離れぬ」
アルベールは静かに首を振った。
「あやつほど先王陛下に忠義を尽くした男を、わしは知らぬ。たとえ今の王国がどれほど腐り果てようと、あやつは最後まで王国に残るだろう」
「へえ……」
佐助は面白そうに笑った。
「そいつは、ますます会ってみたくなったぜ」
「……人の話を聞いておるのか?」
「聞いてるって」
佐助は軽く手を振った。
「でもよ、殿に会ってくるように言われてるんでね。ちょっくら行ってきますぜ!」
アルベールは深いため息をついた。
「まったく……真田殿の家臣は、皆そのように向こう見ずなのか?」
「さあね。俺はまだ慎重な方だと思うけど?」
「それは到底信じられぬな」
二人は顔を見合わせ、笑った。
だが、アルベールはすぐに真顔になった。
「佐助殿」
「何だい?」
「そなたがどれほど強いのか、わしには分からぬ。だが、一つだけ忠告しておこう」
その声音が変わった。
「あやつが剣を取ったら、すぐに逃げるのだぞ」
佐助の笑みが、わずかに薄れた。
「……ほう?」
「間違っても、打ち負かして屈服させようなどと思わぬことだ」
アルベールは佐助の目をまっすぐに見つめた。
「そなたがどれほど腕に覚えがあろうと、あやつの剣を侮ってはならぬ」
「……ずいぶん買ってるんだな、その剣聖様を」
「当然だ」
アルベールは即答した。
「わしは、あやつと幾度も戦場を共にしてきた。あやつの剣がどれほど恐ろしいものか、誰よりも知っておる」
「なるほどねえ」
佐助は腕を組んだ。
「王国の二枚看板、剣聖と賢者。噂は聞いてたけど、そこまでとはね」
「噂などではない。あやつは本物だ」
アルベールは静かに続けた。
「わしは魔法であれば、そうそう後れを取るつもりはない。だが、剣を手にしたあやつと正面から戦いたいとは思わぬ」
「へえ……」
佐助は口元に笑みを浮かべた。
だが、その目は笑っていなかった。
この老人は、佐助の腕をある程度見抜いている。
そのうえで、逃げろと言っているのだ。
「……分かった。忠告はありがたく受け取っとくよ」
「うむ。それがよい」
「もっとも、会う前から尻尾巻いて逃げるわけにもいかねえけどな」
「……まったく」
アルベールは呆れたように額を押さえた。
「ははっ! 大丈夫だって!」
佐助は笑いながら扉へ向かった。
そして、ふと足を止めた。
「ありがとよ、アルベールさん」
「……何がだ?」
「いろいろとさ。また会おうぜ」
佐助は振り返り、いつもの軽い笑みを浮かべた。
「次は真田の地で、ってことになるかもな」
アルベールは嬉しそうに笑った。
「はっはっは! それは楽しみだ!」
「じゃ、またな!」
佐助は軽く手を振ると、部屋を後にした。
一人残されたアルベールは、しばらく閉じた扉を見つめていた。
「……猿飛佐助、か」
真田幸村の家臣。
軽薄にも見えるその男は、王都に入ってからの監視を見抜き、厳重な警備を抜けてこの屋敷までたどり着いた。
相当な腕前であることは間違いない。
だが。
「……あやつの剣は、その程度の腕でどうにかなるものではないぞ」
アルベールは小さく呟いた。
そして、遠い昔を思い出すように目を細めた。
「まったく……昔から、頑固な男よ」
その言葉には、呆れと、どこか懐かしさが入り混じっていた。
⸻
屋敷を出た佐助は、夕暮れの王都を歩いていた。
「……剣を取ったら、すぐに逃げろ、か」
アルベールの言葉を思い返す。
あの老人は、佐助の腕を認めていた。
それでも、剣聖とは戦うなと言った。
「こりゃ、相当な化け物らしいな」
佐助は小さく笑った。
剣の達人なら、これまで何人も見てきた。
真田の仲間たちも、いずれ劣らぬ猛者ばかりだ。
それでも、あの賢者がそこまで言う相手とは。




