臣従
上田の町に、夕刻の鐘が鳴り響いていた。
「門限じゃぁぁぁぁぁ!」
先ほどまで自分を取り囲んでいた子供たちが、一斉に駆け出していく。
ロランは呆然と、その背中を見送っていた。
「……なんとも、賑やかな土地ですな」
「お恥ずかしいところをお見せいたした」
隣に立つ穴山小助が、苦笑する。
「いや、恥ずかしいなどと」
ロランは首を振った。
むしろ、羨ましかった。
子供たちが門限を破ることを恐れ、町中を駆け回る。
それを見た町の者たちが笑う。
たったそれだけの光景が、今の王国ではどれほど貴重なものか。
戦が続き、税は重くなり、領主たちは己の保身に走る。
民は疲弊し、子供たちの笑い声すら失われつつある。
だが、この町は違った。
道は整えられ、市場には人が溢れ、兵は鍛えられ、子供たちは笑っている。
それも、三万を超える王国軍を打ち破った直後だというのに。
「小助殿」
「なんじゃ?」
「真田卿とは、どのようなお方ですかな」
小助は少し考えた。
「そうじゃな……」
そして、笑った。
「会えば分かる」
「……なるほど」
ロランも笑った。
その答えが、妙に心強かった。
◇
案内された館は、ロランが想像していたものとは違っていた。
王国の貴族たちは、己の権威を示すために屋敷を飾り立てる。
大理石の柱。
金銀の装飾。
高価な絨毯。
そして、必要以上に多くの召使いたち。
だが、真田幸村の館には、そのようなものがほとんどなかった。
建物そのものは立派である。
しかし、華美ではない。
通された部屋にも、必要な調度品が整然と置かれているだけだった。
「こちらでお待ちくだされ」
小助がそう告げると、ロランは静かに頷いた。
やがて、廊下から足音が聞こえた。
扉が開く。
入ってきたのは、赤い衣を纏った一人の男だった。
背が高い。
骨太な体つき。
鋭い眼差し。
しかし、その表情には不思議と威圧感がない。
その後ろには、落ち着いた風貌の男が続いていた。
「待たせたな」
赤い衣の男が言った。
「真田幸村じゃ」
ロランは立ち上がり、深く頭を下げた。
「お初にお目にかかります。ロラン・アルベリック・セバスティアン・ド・モンフォール=ヴァレンティエールと申します」
「…………」
幸村が黙った。
隣の男も黙った。
しばしの沈黙。
「……六郎」
「はっ」
「長いな」
「長うございますな」
ロランは思わず顔を上げた。
幸村は真顔だった。
「ロランと呼んでもよいか」
「……もちろんでございます」
「うむ。ではロラン殿、遠路よう参られた」
ロランは小さく笑った。
噂に聞く真田幸村。
三万の軍勢を打ち破り、王太子アレクシスを討った男。
どれほど恐ろしい人物かと思っていたが、どうやら少し違うらしい。
「して、用向きは何じゃ?」
幸村が尋ねた。
ロランは姿勢を正した。
「その前に、一つだけ申し上げたいことがございます」
「申されよ」
「私は本日、上田の町を拝見いたしました」
「ほう」
「道は整い、市場は栄え、民は笑い、兵はよく鍛えられている」
ロランは言葉を続けた。
「三万を超える王国軍を打ち破った土地と聞き、さぞ荒れ果てているものと思っておりました」
「…………」
「しかし、私が目にしたのは、戦の傷跡ではなく、明日を信じて生きる民の姿でございました」
幸村は黙って聞いていた。
「そして、町の子供たちにも会いました」
「子供?」
「銭と名乗る少女でございます」
その名を聞いた途端、幸村が笑った。
「はっはっは! 銭か!」
「ご存じでございますか?」
「無論じゃ。面白き者であろう?」
「……はい。実に愉快な少女でございました」
「そうであろう。だから拾ったのじゃ」
「……拾った?」
「うむ」
幸村は愉快そうに笑った。
「初めて会うた頃から、なかなか肝の据わった童でな」
ロランは思い出した。
見知らぬ大人、それも剣を帯びた貴族を前にして、少しも臆することなく問い詰めてきた少女。
確かに、ただの子供ではなかった。
「なるほど。真田卿が目をかけられるのも分かる気がいたします」
「はっはっは!」
幸村は楽しそうに笑った。
その笑顔を見ながら、ロランは決意を固めた。
◇
ロランは幸村の前に進み出ると、静かに片膝をついた。
「真田卿」
「む?」
「このロラン、我が領地と領民、そしてこの身のすべてをもって、貴卿に臣従いたしたく存じます」
「……ほう」
幸村の目が細くなった。
「それはまた、思い切ったことを申す」
「私は今日、この上田で確信いたしました」
ロランは顔を上げた。
「王国はもはや、民を守る国ではございません。今こそ新たな秩序が必要なのです」
「…………」
「どうか、我らが新しき王に!」
幸村はしばらくロランを見つめていた。
そして。
「王にはならん!」
きっぱりと言い放った。
「……は?」
ロランが顔を上げる。
「わしは王になどならぬ」
「し、しかし!」
「まだまだやる事があるでな」
幸村は笑った。
ロランは困惑した。
王国の大軍を打ち破り、王太子を討ち、これほどの町を築き上げた男。
王となる資格も、力もある。
なのに、目の前の男は王位にまるで興味を示さない。
「……では」
ロランは恐る恐る尋ねた。
「何とお呼びすればよろしいのでしょうか?」
その問いに、幸村の隣に控えていた六郎が口を開いた。
「殿とお呼び頂きたい」
「……トノ?」
「左様」
「トノとは、いかなる意味でございましょう?」
六郎は背筋を伸ばした。
「この御殿、家の主と言う意味でござる!」
「……家の主」
「左様にございます」
ロランは幸村を見た。
王にはならぬ。
だが、臣従は受け入れる。
そして、王ではなく、家の主と呼べという。
「そうじゃ。つまり、貴卿は真田の家の者となったという意味でもある」
六郎が付け加えた。
「……殿」
ロランは小さく口にした。
「うむ」
幸村が頷く。
ロランは改めて深く頭を下げた。
「では、これより殿とお呼びいたします」
「うむ。よろしゅう頼むぞ、ロラン」
幸村は満足そうに笑った。
◇
「さて、ロラン」
「はっ!」
「早速じゃが、其方に頼みたいことがある」
「何なりとお申し付けください」
幸村は頷いた。
「今後、貴族どもの相手は其方がせよ」
「…………」
ロランは固まった。
「……は?」
「わしは貴族のしきたりに疎い。其方に任せる」
「し、しかし、いかように対処すればよろしいのでしょうか?」
幸村は腕を組んだ。
「簡単なことじゃ」
「はっ」
「臣従を望む者は受け入れよ。迷うておる者には、其方が助言してやれ」
「はっ!」
「敵対する者は、好きにさせよ」
「……よろしいので?」
「うむ。従わぬ者を無理に従わせるつもりはない」
幸村はそこで、ロランをまっすぐに見た。
「ただし、一つだけ、決して忘れてはならぬことがある」
「何でございましょう」
「真田に加わる者には、必ず真田の法を守ると誓わせよ!」
「……真田の法」
「左様。貴族であろうと、平民であろうと、法の前に違いはない」
ロランは息を呑んだ。
王国では、貴族が法を定め、民がそれに従う。
だが、この男は違う。
自らに臣従する貴族に対してさえ、特別扱いは許さぬというのだ。
「承知いたしました!」
ロランは深く頭を下げた。
「このロラン、必ずや殿の御意に従いましょう!」
「うむ。頼んだぞ!」
◇
話が一段落した頃。
六郎がふと尋ねた。
「ロラン殿。近隣の貴族どもは、今どのような様子じゃ?」
ロランの表情が引き締まった。
「動揺しております」
「ほう」
「王太子殿下の敗死は、王国全土に衝撃を与えました。既に王都から距離を置こうとする者もおります」
「…………」
「中には、真田卿との和睦を望む者も少なくありますまい」
六郎は頷いた。
「ならば、無用な戦は避けたいものじゃ」
「同感でございます」
ロランは一度、言葉を切った。
「ただし……」
「何じゃ?」
「一人だけ、説得が難しいと思われる者がおります」
幸村が目を向けた。
「誰じゃ?」
「先の戦で、父を失った子爵の嫡男でございます」
「…………」
「その者は、父の仇を討つと公言しております」
部屋に沈黙が落ちた。
幸村は静かに目を閉じた。
戦場で敵を討つ。
それは武士の習いである。
だが、討たれた者にも家族がいる。
その恨みまで消すことはできぬ。
「……そうか」
幸村は短く答えた。
ロランが尋ねる。
「いかがいたしましょう」
幸村は目を開いた。
「まずは話をせよ」
「はっ」
「父の仇を憎むは当然のこと。されど、恨みのために領民を戦へ巻き込むことは、また別じゃ」
「…………」
「その者にも、守るべき民がおろう」
ロランは深く頭を下げた。
「承知いたしました」
幸村は立ち上がった。
「さて、六郎」
「はっ」
「腹が減った」
「……殿」
「何じゃ?」
「まだ仕事が残っております」
「明日ではいかんか?」
「いけませぬ」
「…………」
ロランは思わず笑いそうになった。
先ほどの童組と、まるで同じではないか。
この館では、子供も大将も、叱られる相手には逆らえぬらしい。
幸村がロランを見た。
「どうした?」
「いえ、何でもございません」
ロランは慌てて頭を下げた。
真田幸村。
三万の王国軍を破った男。
その男が、家老に仕事を命じられ、少し困った顔をしている。
ロランは心の中で呟いた。
どうやら私は、とんでもない主君を選んだらしい。
だが。
後悔は、なかった。




