上田④
王太子アレクシスの右腕には、幾重にも布が巻かれていた。
血は既に止まっている。
傷そのものは、命に関わるものではない。
だが。
アレクシスの耳には、今もあの音が残っていた。
乾いた、雷鳴にも似た音。
何が起きたのか分からぬまま、次の瞬間には腕から血が噴き出していた。
「……真田」
アレクシスが呟いた。
「真田……真田……真田ぁ……!」
机を蹴り飛ばす。
「殿下!」
周囲の貴族たちが慌てて離れた。
「殺せ! 真田を殺せ! 奴らを一人残らず殺すのだ!」
「お待ちください!」
騎士団長が声を上げた。
アレクシスが睨みつける。
「……何だ」
「今は軍を退かせるべきです」
「何?」
「兵は疲弊しております。兵糧を失い、攻城兵器も多くが使えませぬ。先ほどは後方まで攻撃を受けました。ここで一度軍を退かせ、態勢を立て直すべきかと」
「黙れ!」
アレクシスが叫んだ。
「三万だぞ!」
天幕の中が静まり返る。
「我らにはまだ三万もの兵がいる! 真田は二千! たった二千ではないか!」
「数だけで戦が決まるのであれば、我らは既に勝っております」
「貴様……!」
騎士団長は一歩も退かなかった。
「だからこそ申し上げております。今の我が軍は、一つの軍として戦える状態ではございません」
「もうよい!」
アレクシスが立ち上がった。
「全軍を進めろ!」
「殿下!」
「総攻撃だ! 数で押し潰せ! 真田の二千など踏み潰してしまえ!」
騎士団長がなおも口を開こうとする。
その肩を、ラヴァル公爵が静かに掴んだ。
「……もうよせ」
「しかし」
「聞く耳を持たぬ者に、言葉は届かぬ」
アルベール・ド・ラヴァル。
オルレーヌ王国が誇る賢者は、王太子を見つめた。
「殿下。最後に一つだけ申し上げます」
「何だ!」
「軍とは、数を集めれば軍になるものではございません」
アレクシスは鼻で笑った。
「臆病者どもが」
そして天幕の外へ向かって叫んだ。
「全軍前進! 真田を皆殺しにせよ!」
◆
「動きました」
佐助からの報せを受けた海野六郎が、幸村へ告げた。
「敵、全軍前進。されど隊列は乱れておりまする。先陣と後続の間も開き始めているとのこと」
「左様か」
幸村は軍扇を開いた。
ここまで待った。
兵糧を削った。
眠りを奪った。
道を壊した。
水を放ち、攻城兵器を泥へ沈めた。
百人で突き、敵の神経を削った。
それでも、幸村は動かなかった。
六郎が一度だけ尋ねたことがある。
そろそろにございますか、と。
その時、幸村はまだだと答えた。
だが今。
敵は自ら隊列を崩し、こちらへ向かってきている。
幸村が笑った。
「……頃合いじゃ」
六郎の口元にも笑みが浮かんだ。
「御意」
幸村は軍扇を上げた。
「全軍、支度せよ!」
「はっ!」
二千の兵が動き始める。
◆
王国軍の先陣が姿を現した。
数千。
その後ろにも次の部隊が続いている。
だが、その間隔は大きく開いていた。
全軍で押し潰すはずの三万が、三万として戦場へ入ってこない。
前から順に、ばらばらと真田の前へ差し出されていく。
「敵が見えたぞ!」
「真田だ!」
「進め!」
王国兵が盾を構えた。
その時だった。
「放て!」
真田の陣から、一斉に石が飛んだ。
「なっ!?」
拳ほどの石が雨のように降り注ぐ。
兜を打ち、盾を叩き、顔面を襲う。
「ぐあっ!」
「石だ!」
「盾を上げろ!」
王国兵たちが慌てて盾を持ち上げた。
密集していた隊列が乱れる。
「清海兄者、あれは食えるのか?」
三好伊三が、傍らに積まれた石を見た。
「食えぬじゃろ」
「そうか」
清海が一つ掴んだ。
「ならば投げるか」
「清海殿!」
穴山小助が慌てて止めた。
「それは置いてくだされ!」
「何故じゃ?」
「清海殿が投げれば、兵を乱すどころか死にまする!」
「そうか?」
「そうです!」
清海は少し残念そうに石を戻した。
「我らには別の役目があるそうじゃ」
「なら仕方ないのう」
二人が金棒を担ぎ直す。
小助は額の汗を拭った。
「……頼みまするぞ」
その頃には石を投じた兵たちは、既に次の持ち場へ退き始めていた。
代わって左右の林から姿を現したものを、王国兵は知らなかった。
何十本もの黒い筒。
それが自分たちへ向けられている。
「十蔵!」
幸村が軍扇を振り下ろした。
「はっ!」
筧十蔵が片手を上げる。
「左、放て!」
轟音が響いた。
ドドドドドドンッ!!
白煙が噴き上がる。
「な、何だ!?」
王国兵が倒れる。
「右、放て!」
再び轟音。
ドドドドドドンッ!!
今度は反対側からだった。
「ぐあっ!」
「魔法か!?」
「違う! 詠唱がない!」
「盾を向けろ!」
「どちらへだ!?」
左へ盾を向ければ、右から撃ち込まれる。
右へ向けば、左が開く。
石を避けるために崩れた隊列へ、左右から弾丸が飛び込んでくる。
それでも王国兵たちは進んだ。
「前へ!」
「止まるな!」
「敵は少ないぞ!」
白煙の向こう。
そこには、長大な槍を構えた兵たちが待っていた。
「長槍!」
小助が叫ぶ。
「構え!」
無数の穂先が一斉に下がった。
「突け!」
槍衾が動いた。
「ぐっ!」
「止まれ!」
「後ろから押すな!」
前へ進もうとする兵。
止まろうとする兵。
後方から押される兵。
そこへ再び石が飛び、左右から轟音が響く。
そして。
ドン!
王国兵の何人かが、びくりと身体を震わせた。
ドン!
ドドドン!
「……太鼓」
かつて上田へ攻め込み、生きて帰った兵の顔から血の気が引いた。
「真田の……太鼓だ……」
ドン!
ドン!
ドドドン!
「来るぞ!」
「何がだ!?」
「分からん!」
「分からんが、来るんだ!」
それこそが、真田の太鼓が王国兵へ刻み込んだ恐怖だった。
何が来るのか分からない。
だが、太鼓が鳴れば真田が動く。
「望月隊、出るぞ!」
「おおっ!」
望月六郎の隊が側面へ突っ込んだ。
反対側では根津甚八が兵を率いる。
「深追いはするな! 崩したら戻れ!」
「はっ!」
前には長槍。
左右には轟音と白煙。
さらに側面から兵が襲いかかる。
先陣は耐え切れず崩れた。
そこへ、遅れて次の部隊がやってくる。
同じだった。
石。
轟音。
長槍。
太鼓。
側面からの攻撃。
一つを崩す。
退く。
次を迎える。
また崩す。
三万を相手にしているのではない。
真田は、目の前へ差し出された敵だけを、一つずつ潰していた。
◆
「何故だ!」
アレクシスが叫んだ。
「何故進まぬ!」
「前方が詰まっております!」
「ならば押せ!」
「ですが、退いてくる兵と進む兵が!」
「押せと言っている!」
騎士団長が歯を食いしばった。
「殿下! これ以上兵を送ってはなりません!」
「黙れ!」
「我らは今、戦っているのではありません!」
アレクシスが振り返る。
騎士団長は前方を指した。
「兵を一隊ずつ、真田へ差し出しているのです!」
「ならば全て出せ!」
「なっ……!」
「全軍で行けばよい! 三万で二千を囲め!」
「その三万を同時に動かせぬから申し上げているのです!」
アレクシスは答えなかった。
遠くから轟音が聞こえた。
ドドドドドドンッ!!
「……っ!」
アレクシスが右腕を押さえた。
「あの音……」
傷が疼いたわけではない。
だが、身体が覚えていた。
「あれが……余の腕を……」
ラヴァル公爵が、その様子を黙って見ていた。
アレクシスの顔が歪む。
「馬を出せ!」
「殿下?」
「余が行く!」
「お待ちください!」
「余が姿を見せれば兵は奮い立つ! 王太子が自ら戦っていると知れば、真田など!」
騎士団長が止めるより早く、アレクシスは馬へ跨がった。
「親衛隊! 余に続け!」
「殿下!」
騎士団長の声を無視し、アレクシスは前線へ向かった。
ラヴァル公爵が小さく息を吐いた。
「……終わったな」
◆
幸村は戦場を見ていた。
敵の先陣は崩れた。
次の隊も崩れ始めている。
後方から来る兵は前へ進めず、逃げてくる味方とぶつかっていた。
もはや三万の軍ではない。
ただの人の群れになりつつある。
幸村が軍扇を上げた。
「六郎」
「はっ」
「参るぞ」
六郎が笑った。
「ようやくにございますな」
「待たせたの」
幸村は朱槍を握る。
「真田勢!」
二千の兵が幸村を見る。
「押し出せぇ!」
「おおおおおおっ!!」
太鼓が鳴った。
ドン!
ドン!
ドドドン!
真田の二千が、一斉に前へ出た。
「兄者!」
「おう!」
三好兄弟が金棒を振り上げる。
「今度こそ我らの番じゃ!」
「腹が減ったのう!」
「終わったら食えばよい!」
「ならば急ぐぞ!」
「おお!」
二本の金棒が王国兵の盾を吹き飛ばした。
「やはりオーガだ!」
「誰がオーガじゃ!」
「兄者、今のは我らのことではないか?」
「そうなのか?」
その横を幸村が駆け抜ける。
朱槍が閃いた。
一人、二人と敵を退けても、幸村は止まらない。
真田の兵が続く。
王国軍は、もう受け止めることができなかった。
「退け!」
「逃げろ!」
「隊列を組め!」
「無理だ!」
その混乱の中。
「退くな!」
馬上から声が響いた。
「余がいるぞ!」
アレクシスだった。
「余がここにいる! 戦え! 真田を討て!」
だが兵は止まらない。
アレクシスの横を、次々と逃げていく。
「何故逃げる!」
「殿下、お下がりください!」
「黙れ!」
親衛兵を振り払ったアレクシスの視線が、前方で止まった。
朱。
赤備えの中でも、ひときわ鮮やかな朱槍。
真っ直ぐこちらへ向かってくる男がいた。
「……真田」
アレクシスの顔が引き攣った。
幸村もまた、アレクシスを見つけていた。
「王太子じゃな」
朱槍を握り直す。
親衛兵が幸村へ向かう。
「殿下を守れ!」
幸村は止まらない。
一人を退け、二人目の槍を弾き、馬上のアレクシスへ迫る。
「く、来るな!」
アレクシスが叫んだ。
「余を誰だと思っておる!」
幸村が足を止めた。
「余はオルレーヌ王国の王太子! 次の王じゃぞ!」
「存じ上げておりまする」
「な……」
幸村は朱槍を構えた。
「なればこそ」
一歩、踏み込む。
「拙者が御首級、頂戴に参上仕った」
「ま、待て!」
「御免」
朱槍が閃いた。
アレクシスの身体が馬上で揺れる。
次の瞬間。
王太子アレクシスの首が、地へ落ちた。
一瞬だけ。
戦場から音が消えた。
「……殿下?」
誰かが呟いた。
「王太子殿下が……」
そして。
「殿下が討たれた!」
悲鳴が広がった。
「王太子殿下が討たれたぞ!」
「逃げろ!」
「もう駄目だ!」
辛うじて残っていた王国軍の統制が、完全に消えた。
武器を捨てる者。
盾を捨てる者。
負傷した仲間を抱えて逃げる者。
誰も命令を聞かない。
命令する者もいない。
オルレーヌ王国が集めた大軍は、ついに軍ではなくなった。
◆
「殿下……」
騎士団長が前線へ辿り着いた時には、全てが終わっていた。
遠くに朱槍を持つ幸村が見える。
その近くには、王太子アレクシスの亡骸。
騎士団長は一度だけ目を閉じた。
だが、すぐに開いた。
今は死者を悼んでいる時ではない。
「騎士団長!」
後方からラヴァル公爵がやって来る。
騎士団長は振り返ると、姿勢を正した。
そこに親友へ向ける顔はなかった。
「ラヴァル公爵閣下」
アルベール・ド・ラヴァルが、僅かに目を見開いた。
「全軍撤退の指揮をお願いいたします」
「……お主はどうする?」
「私は騎士団を率い、敵の追撃を防ぎます」
ラヴァル公爵は何も言わなかった。
その言葉の意味を、誰よりも理解していた。
騎士団長は続ける。
「負傷兵を優先して下げてください。部隊の違いなど構いませぬ。動ける者には動けぬ者を助けさせ、一人でも多く退かせていただきたい」
「……よいのか?」
騎士団長は剣を抜いた。
「私が副将でありますので」
迷いはなかった。
「全軍が引くまで、一兵たりとも追わせません」
ラヴァル公爵は、長い付き合いになる友を見つめた。
言いたいことはいくらでもあった。
だが、口から出た言葉は一つだけだった。
「……承知した」
ラヴァル公爵が背を向ける。
「全軍、撤退する! 負傷者を助けよ! 部隊の違いなど構うな! 動ける者から西へ下がれ!」
賢者の声が響き渡った。
混乱していた兵たちが、少しずつ一つの方向へ動き始める。
騎士団長は、その姿を見届けた。
「騎士団、集結!」
王国最精鋭の騎士たちが集まってくる。
「我らはここに残る。友軍が退くまで、敵をここから先へ通すな!」
「はっ!」
盾が並んだ。
剣が抜かれた。
逃げていく王国軍の流れに逆らうように、騎士団だけが真田軍へ向き直る。
◆
「殿」
六郎が前方を見た。
「敵の騎士団が残っておりまする」
「うむ」
「他の兵は退いております」
幸村にも見えていた。
敗走する兵たち。
その最後尾に立つ騎士たち。
そして先頭に、あの男がいる。
先日の会談で剣を交えた男。
「……殿を務めるか」
「そのようにございますな」
幸村はしばらく騎士団を見た。
「……見事」
真田軍が前へ進み始める。
騎士たちが盾を構えた。
騎士団長が剣を握る。
互いの距離が縮まっていく。
だが。
幸村が軍扇を上げた。
「止まれ!」
真田軍が止まった。
「殿?」
六郎が幸村を見る。
「追わぬ」
六郎は逃げていく王国兵を見た。
「されど今ならば、敵をさらに削れまする」
「十分じゃ」
幸村は騎士団長を見た。
そして、その向こうを見た。
傷ついた仲間を支えながら歩く兵。
武器を捨てた兵。
ただ生きて帰ろうとする者たち。
騎士団長が一人、前へ出た。
「真田幸村!」
幸村も朱槍を手に前へ出る。
「何故、追わぬ」
「戦は終わった」
「…………」
幸村は静かに言った。
「王太子は討った。軍も崩れた」
騎士団長を見る。
「これ以上、誰が死ぬ必要がある」
騎士団長は答えなかった。
しばらく幸村を見つめる。
「……情けをかけるのか」
「情けではない」
幸村は首を振った。
「戦が終わっただけじゃ」
風が吹いた。
二人の間を、戦場の土埃が流れていく。
やがて騎士団長が剣を鞘へ納めた。
「……真田幸村」
「何じゃ」
「いずれ、もう一度お会いしたい」
幸村は僅かに笑った。
「拙者もじゃ」
騎士団長は踵を返した。
「騎士団、総員撤退!」
騎士たちがざわめく。
「団長!」
「しかし、我らまで退けば!」
「敵は目の前です! 背を向ければ追撃を受けます!」
騎士団長は振り返らなかった。
「構わぬ」
「ですが!」
「あの御仁ならば、大丈夫だ」
騎士たちは息を呑んだ。
敵に背を向ける。
戦場で、それが何を意味するのか知らぬ者はいない。
それでも騎士団長は歩き始めた。
一人。
また一人。
騎士たちが剣を収め、その後に続く。
やがて騎士団の全員が、真田軍へ背を向けた。
誰も追ってこなかった。
馬蹄と足音だけが響く。
騎士たちは何度も背後を気にした。
だが騎士団長だけは、一度も振り返らなかった。
しばらく進んだ、その時だった。
背後から声が響いた。
「えい、えい!」
そして。
「おおおおおおおおっ!!」
地を揺らすほどの声だった。
何人もの騎士が思わず振り返る。
真田軍は追ってこない。
兵たちは武器を掲げ、勝利を叫んでいた。
「えい、えい!」
「おおおおおおおおっ!!」
騎士団長は振り返らなかった。
ただ、その声を背中で聞きながら歩き続けた。
こうして。
オルレーヌ王国が集めた大軍は、上田を落とすことなく敗れた。
真田幸村と二千の兵は、王国の大軍を退けた。
そして上田の地に。
真田の勝ち鬨が、いつまでも響いていた。
次話から通常の月水金に戻します。




