上田③
王国軍本陣には、重苦しい空気が漂っていた。
街道は水と泥に荒らされ、兵糧を積んだ荷車の一部を失い、攻城兵器の多くが立ち往生している。そのうえ、僅か百ほどの真田兵に軍列を襲われた。
被害そのものは、三万を超える軍勢から見れば決して大きくはない。
だが、アレクシスにとっては違った。
「何故だ!」
卓上の杯が床へ叩きつけられた。
「何故、余の軍がこのような目に遭っておる!」
誰も答えない。
「三万じゃぞ! 三万を超える兵を余は率いておるのだ! それが何故、たった二千の賊どもに好き放題されておる!」
アレクシスの視線が騎士団長へ向いた。
「騎士団長!」
「はっ」
「貴様が慎重になどと申すからだ! 進軍は遅れ、真田に好き放題させておる!」
騎士団長は反論しなかった。
あの時、百の兵を追わせていれば、その先に待ち構えていた伏兵によって更なる損害を受けていた。
それを説明したところで、今の王太子が聞き入れるとも思えない。
その隣では、賢者が黙って目を閉じていた。
「殿下」
取り巻きの貴族の一人が口を開いた。
「策には策をもって応じてはいかがでしょう」
アレクシスの眉が動く。
「……申してみよ」
「和平を申し入れるのでございます」
騎士団長が貴族を見る。
「和平?」
「はい」
貴族は薄く笑った。
「真田幸村を話し合いの場へ呼び出すのです。これまでの罪を赦し、奴が支配している土地を領地として認め、爵位まで与えると申せばよろしい」
「それで?」
「真田幸村が現れたところを、討ち取ります」
騎士団長の顔から表情が消えた。
「……正気か」
貴族が振り返る。
「戦でございますぞ」
「和平を申し入れて呼び出した相手を殺すことを、戦とは呼ばん」
「では、このまま賊に翻弄され続けろと?」
「そうは申しておらぬ」
騎士団長の声が低くなる。
「それをすれば、今後この国が和平を申し入れても、誰も信じなくなると申している」
アレクシスが鼻を鳴らした。
「真田ごときとの約束が、何だというのだ」
「殿下」
「黙れ」
騎士団長は口を閉じた。
貴族が続ける。
「それに殿下、真田幸村さえ討てば、あとは容易いもの。奴の首を掲げ、指揮官を失った賊軍を殿下の大軍で踏み潰せばよろしいのです」
アレクシスはしばらく考えた。
「……真田が来ると思うか?」
「来なければ、和平を拒んだのは真田であると兵たちに示せます」
「ふむ」
「そして来れば、殿下自ら真田の首を取り、この戦を終わらせたことになる」
アレクシスの口元が緩んだ。
「悪くない」
「殿下!」
騎士団長が一歩出る。
「おやめください」
「まだ申すか」
「真田幸村は愚かではございません。この程度の罠を見抜けぬ男ならば、我らはここまで苦しめられておりません」
「だからどうした」
「罠と分かったうえで、なお奴が来たならば」
騎士団長は一度言葉を切り、アレクシスを真っ直ぐ見た。
「我らの方こそ、警戒すべきです」
アレクシスが笑った。
「余には貴様がおる」
「…………」
「そして賢者もな」
それまで黙っていた賢者が、ゆっくりと目を開けた。
「儂を数に入れていただいては困りますな」
「何?」
「和平の席なのでございましょう?」
賢者は穏やかに笑った。
「ならば、儂は話を聞きに参ります」
◆
翌日。
和平の申し入れを受け取った幸村は、しばらく文を眺めていた。
「……和平、でございますか」
海野六郎が呟く。
「うむ」
「罠にございましょうな」
「であろうな」
幸村はあっさり答えた。
「では、お断りを?」
「いや」
幸村は文を畳んだ。
「参ろう」
「殿」
六郎の顔が険しくなる。
「分かっておる」
幸村は笑った。
「されど、真に戦を終わらせたいと申すのであれば、話を聞かぬわけにもいくまい」
「…………」
「こちらから条件を出す。双方五名。場所は互いの陣より離れた地とする」
「それでも罠であったならば?」
幸村の笑みが少し深くなる。
「その時は、その時じゃ」
◆
会談の場所が決まった。
王国軍の陣にやや近い、開けた草地。両軍から離れており、周囲には低い丘と林がある。
双方、五名。
王国側は王太子アレクシス、騎士団長、賢者、そして二人の貴族。
真田側は幸村、三好清海、三好伊三、根津甚八、望月六郎。
出発を前に、幸村は海野六郎を呼んだ。
「六郎」
「はっ」
「留守を頼む」
「承知いたしました」
「何かあれば、お主の判断で動け」
六郎が僅かに眉を寄せる。
「随分と嫌なことを仰せになりますな」
「ははは!」
幸村が笑った。
「心配するな。死にに行くわけではない」
「ならば、必ずお戻りくだされ」
「うむ」
幸村は次に筧十蔵を見る。
「十蔵」
「はっ」
「見える場所を取れ」
「承知」
「ただし」
幸村の目が鋭くなる。
「王太子は殺すな」
十蔵が僅かに首を傾げる。
「では?」
「腕じゃ」
「……腕?」
「うむ」
幸村は笑った。
「それで十分じゃ」
十蔵もまた、小さく笑う。
「承知仕った」
少し離れたところでは、佐助が木の枝に腰掛けていた。
「じゃ、俺も行ってくるわ」
「頼むぞ、佐助」
「はいよ」
佐助はひらりと枝から飛び降り、そのまま姿を消した。
向かう先は会談場ではない。
王国軍の後方だった。
◆
昼。
先に会談場へ着いていたアレクシスは、不機嫌そうに椅子へ座っていた。
「遅い」
「まだ約した刻限前にございます」
騎士団長が答える。
「余を待たせていることに変わりはない」
やがて騎士団長が顔を上げた。
「来ました」
五つの人影が歩いてくる。
先頭には、赤い具足の男。
真田幸村。
騎士団長は黙ってその姿を見た。
もっと異様な男を想像していた。
三万を超える軍を翻弄し、行く先々でこちらの裏をかき、自軍をここまで疲弊させた男。
だが、歩いてくるのは静かな男だった。
威圧するでもない。怯えるでもない。ただ真っ直ぐ、こちらへ歩いてくる。
「……あれが」
騎士団長が呟いた。
幸村もまた、王国側の五人を見ていた。
中央に座る若者。豪華な衣装を見れば、誰が王太子かは分かる。
だが、幸村の目が止まったのは、その隣だった。
剣を帯びた一人の男。
歩き方、立ち方、こちらを見る目。
幸村が小さく笑う。
「なるほど」
甚八が尋ねた。
「如何なされました?」
「いや」
幸村は前を向いたまま答えた。
「敵にも、戦を知る者がおるようじゃ」
騎士団長と幸村の視線が交わった。
互いに逸らさない。
言葉はない。
だが、互いに理解した。
こいつだ。
◆
「真田幸村」
アレクシスが口を開いた。
「はっ」
「余がオルレーヌ王国王太子、アレクシスである」
「存じ上げておりまする」
幸村が頭を下げる。
アレクシスは満足そうに頷いた。
「ならば話は早い。余は寛大だ」
幸村は黙っている。
「其の方がこれまで犯した罪を赦してやろう。そして現在支配している土地も、其の方の領地として認めてやる」
「ほう」
「さらに余に忠誠を誓うのであれば、爵位を与えてやろう」
「一つ、よろしいか?」
「申せ」
「上田は既に我らの地にございます」
アレクシスの顔が引きつる。
「貴様……!」
「故に、頂くと申されても少々困りまする」
清海が横を向いた。
伊三も横を向く。
二人とも笑いを堪えていた。
「無礼者!」
取り巻きの貴族が立ち上がる。
「殿下の御前であるぞ!」
「座れ」
低い声だった。
騎士団長。
貴族が睨む。
「何だと?」
「和平の席だ。座れ」
貴族は不満そうにしながらも腰を下ろした。
幸村は騎士団長を見る。
「かたじけない」
「礼には及ばぬ」
短い言葉。
再び二人の目が合う。
その様子を、賢者は黙って見ていた。
◆
「真田殿」
初めて賢者が口を開いた。
幸村がそちらを見る。
「なんでござろう」
「一つ、尋ねてもよろしいかな」
「無論」
賢者は幸村をじっと見た。
「貴殿は、何を望んでおられる?」
アレクシスが眉をひそめる。
幸村も少し意外そうな顔をした。
「何を、とは?」
「領地か、爵位か、富か。それとも、この国そのものか」
「ははは!」
幸村が笑った。
「随分と大きな話になりましたな」
「笑い事ではない。貴殿は三万を超える軍を敵に回しておる」
「別に三万を敵に回したかったわけではござらん」
幸村の笑みが消えた。
賢者は黙って続きを待つ。
「守らねばならぬ者がおった。それだけじゃ」
「……そのためならば、王国を敵に回すと?」
「必要とあらば」
「帝国でも?」
「相手が誰であろうと」
「魔王であってもか?」
「無論」
即答だった。
賢者の目が僅かに細くなる。
「なるほど」
「何か?」
「いや」
賢者は僅かに笑う。
「少し、貴殿という男が分かった気がしただけだ」
そして、もう一つ尋ねた。
「真田殿」
「うむ?」
「貴殿は本当に、この場が和平のために設けられたと思っておられるのか?」
空気が変わった。
取り巻きの貴族たちが賢者を見る。
「何を仰る!」
「賢者殿!」
アレクシスの顔も険しくなる。
だが、幸村は笑った。
「そうであればよいと思って参りました」
「…………」
賢者が幸村を見る。
「そうでなければ?」
幸村は答えなかった。
ただ、その後ろで清海と伊三が顔を見合わせ、にやりと笑った。
◆
「もうよい!」
アレクシスが立ち上がった。
「余の慈悲を拒むというのだな!」
「まだ何も拒んではおりませぬが」
「黙れ!」
アレクシスが片手を上げる。
騎士団長の顔色が変わった。
「殿下!」
手が振り下ろされた。
その瞬間、周囲の林から兵たちが飛び出した。
「かかれ!」
次々と現れた王国兵が、幸村たちを取り囲む。
「はははは!」
アレクシスが笑った。
「真田幸村! 貴様の負けだ!」
「殿下……」
騎士団長が剣の柄を握りながら、苦い顔をする。
賢者は、座ったままだった。
「賢者! 何をしておる!」
「何も」
「戦え!」
「和平の席と聞いて参りましたのでな」
「貴様!」
幸村の後ろで、清海が首を鳴らした。
「兄者」
「うむ」
伊三も立ち上がる。
「やっと我らの出番じゃな」
「腹が減ったのう」
「終わったら飯じゃ」
「よし!」
清海が金棒を担いだ。
「働くか!」
最初の王国兵が飛び込んできた。
「おおおおっ!」
振り抜かれた金棒が盾を打ち、兵ごと吹き飛ばす。
「なっ!?」
伊三の金棒も唸りを上げ、迫ってきた兵をまとめて薙ぎ払った。
「ぐわあああっ!」
「ば、化け物!」
「誰が化け物じゃ!」
「兄者、オーガと言われなんだだけマシじゃ」
「そうじゃな!」
「何を納得しておる!」
甚八が思わず叫ぶ。
だが、甚八と望月はその場を離れない。
二人の視線は、ただ一人に向けられていた。
賢者。
「…………」
賢者はその視線に気づき、苦笑した。
「随分と警戒されておるな」
「当然にございます」
甚八が答える。
「あなた様が最も危険と見受けまする」
「買い被りだ」
賢者はそう答えたが、立ち上がろうとはしなかった。
◆
騎士団長が剣を抜いた。
幸村も朱槍を手にする。
「……やはり、こうなったか」
騎士団長が呟く。
「止めておられたようじゃな」
「分かっていたか」
「顔を見れば分かる」
騎士団長が苦笑した。
「ならば、剣を抜かずに済ませたいところだが」
「立場というものがござろう」
「ああ」
騎士団長が構えた。
「それが厄介でな」
幸村も朱槍を構える。
「真田幸村」
「うむ」
「参る」
「参られよ」
騎士団長が地を蹴った。
速い。
剣が幸村の首へ走り、朱槍がそれを受ける。
甲高い音が響いた。
騎士団長はそのまま踏み込み、幸村も槍を返す。
再び剣と朱槍がぶつかった。
一合、二合、そして三合。
騎士団長の目が変わる。
幸村もまた、楽しげに笑った。
「強いな」
「そちらこそ」
二人が同時に踏み込んだ。
その時だった。
ドンッ!
乾いた轟音が響いた。
「ぐあああああっ!」
アレクシスの絶叫。
騎士団長が振り返る。
「殿下!」
アレクシスが地面に倒れていた。
腕から血が噴き出している。
「う、腕が! 余の腕が!」
「何が起きた!?」
「分かりません!」
「殿下をお守りしろ!」
王国兵たちは慌ててアレクシスを取り囲む。
剣ではない。
矢が飛んできた様子もない。
魔法を放った者の姿もない。
突然轟音が響き、次の瞬間には王太子の腕が血に染まっていた。
何に攻撃されたのかすら、彼らには分からなかった。
幸村は朱槍を下ろした。
「見事」
遠く離れた丘では、筧十蔵が静かに種子島を下ろしていた。
「仰せの通り、腕にございます」
◆
「撤退だ!」
アレクシスが叫ぶ。
「余を守れ! 早くここから離れろ!」
「殿下、落ち着いてください!」
「黙れ! 真田を殺せ! いや、余を守れ! 早く!」
騎士団長が幸村を見る。
その顔には、明らかな悔しさがあった。
幸村が笑う。
「行かぬのか?」
「…………」
「主が呼んでおるぞ」
騎士団長は剣を握り締めた。
そして、ゆっくりと下ろす。
「……この続きは、いずれ」
「うむ」
幸村も朱槍を下ろした。
「楽しみにしておる」
騎士団長はアレクシスのもとへ走った。
「賢者! 貴様も来い!」
アレクシスが怒鳴る。
賢者はそこでようやく椅子から立ち上がった。
「真田殿」
「なんでござろう」
「今日は、良い話が聞けた」
「和平にはなりませなんだがな」
「そのようだ」
賢者は笑った。
「だが、貴殿のことは少し分かった」
幸村も笑う。
「拙者には、あなた様がさっぱり分かりませぬ」
「それでよい」
賢者は背を向けた。
「次に会う楽しみが残る」
◆
王国側が会談場から退いていく。
清海と伊三も、残った伏兵を追おうとはしなかった。
「殿」
甚八が幸村のそばへ来る。
「追いまするか?」
「いや」
幸村は首を振った。
「放っておけ」
望月が王国軍の方を見る。
「よろしいので?」
「うむ」
その瞬間だった。
ドォォォォォン!!
遠く、王国軍の陣の後方から巨大な煙が上がった。
「な、なんじゃ!?」
清海が目を丸くする。
伊三も煙を見る。
「敵陣じゃぞ」
幸村が笑った。
「佐助じゃな」
◆
王国軍本陣へ戻る途中、アレクシスも爆音を聞いた。
「今度は何だ!」
兵が駆けてくる。
「殿下! 後方が襲撃を受けました!」
「何!?」
「兵糧と物資の一部が!」
アレクシスの顔が歪む。
「真田……!」
怒りか、恐怖か。
もはや本人にも分からなかった。
「真田ぁぁぁぁぁ!!」
その叫びが、荒れ果てた街道に響いた。
一方、会談場に残った幸村は静かに王国軍の方を見ていた。
「殿」
望月が声をかける。
「戻られますか?」
「うむ」
幸村は朱槍を担いだ。
「六郎が待っておる」
そして歩き出す。
和平は、ならなかった。
だが幸村は知った。
敵にも、見事な武人がいることを。
そして賢者は知った。
真田幸村という男が、何のために戦っているのかを。




