上田②
上田決戦が終わるまで毎日投稿します。お楽しみに!
何も起こらなかった。
王国軍三万余は、あれほど警戒していた隘路を抜けても、真田軍の襲撃を受けることはなかった。
さらにその夜。
毎晩のように兵たちを悩ませていた太鼓まで鳴らなかった。
久しぶりに訪れた静かな夜に、兵たちは泥のように眠った。
翌朝。
「顔つきが違うな」
騎士団長は行軍する兵たちを見ながら呟いた。
疲れが消えたわけではない。それでも一晩まともに眠れたことで、兵たちの足取りは昨日までより明らかに軽い。
「たった一晩眠っただけで、これか」
隣を進む賢者が顎髭を撫でた。
「随分と疲れが溜まっておったようじゃな」
「だからこそ、分からん」
「何がじゃ?」
「何故、昨夜は何もしなかった」
騎士団長は周囲の山々へ目を向けた。
「隘路でも仕掛けず、夜も太鼓を鳴らさぬ。これまでの奴らのやり方とは違う」
「諦めたのではないか?」
賢者が笑う。
「お前がそう思っている顔には見えんぞ」
「わしも思っておらんからな」
二人は顔を見合わせた。
その前方では、アレクシスが上機嫌に馬を進めていた。
「見たか! 昨日の隘路にも真田は現れず、夜には太鼓すら鳴らせぬ!」
取り巻きの貴族がすぐに応じる。
「騎士団長率いる精鋭を前方へ置いたことが効いたのでございましょう!」
「ようやく己らの立場を理解したようですな」
「このままベルナールまで一気に参りましょう!」
笑い声が上がる。
騎士団長はそれを聞きながらも、笑うことはなかった。
◆
昼を過ぎた頃。
騎士団長は馬上で地図を広げていた。
昨日抜けた隘路。
現在地。
この先の街道。
斥候から上がってくる報告と照らし合わせながら、一つずつ確認していく。
ふと、その指が止まった。
「……待て」
「どうした?」
賢者が馬を寄せる。
騎士団長は地図を見つめ、それから右手へ顔を向けた。
「この辺りに、川がなかったか?」
「川?」
「ああ。我らの右手から左手へ流れ、街道を横切っている」
賢者も地図を覗き込んだ。
「……確かにあるのう」
二人は周囲を見た。
少し先には小さな橋が架かっている。
だが、その下に水はない。
騎士団長は馬を進め、橋の下を覗き込んだ。
川底には石が転がり、僅かに湿った土が見える。
「…………」
「枯れたのではないか?」
「いや……」
騎士団長は右手の山へ目を向けた。
何かがおかしい。
理由は分からない。
だが、これまで真田に散々振り回されてきた感覚が、胸の奥で警鐘を鳴らしていた。
「……嫌な予感がする」
「何?」
その時だった。
ゴゴゴゴゴ……。
遠くから、低い音が聞こえた。
騎士団長が右手を見る。
森から鳥の群れが一斉に飛び立った。
「……まさか」
次の瞬間。
「水だぁぁぁ!」
兵の叫び声が響いた。
「川から離れろ! 高いところへ上がれ!」
騎士団長が叫ぶ。
だが、既に遅い。
◆
数日前。
真田兵たちは、山を流れる川の上流に簡素な堰を築いていた。
木を組み、石を積み、土を盛る。
川を永くせき止めるためのものではない。
ただ、数日の間。
水を溜めることさえできればよかった。
その堰が、今。
一気に切られた。
◆
濁った水が本来の川筋へと押し寄せる。
水は土や枝を巻き込みながら勢いを増し、やがて川筋から溢れて街道へ流れ込んだ。
「逃げろ!」
「荷を捨てろ!」
「馬を押さえろ!」
王国軍が一斉に動き出す。
だが、三万を超える軍勢である。
前の兵が逃げようとしても後ろには兵がおり、荷車が道を塞ぎ、馬が暴れる。
「押すな!」
「前へ行け!」
「行けるか!」
兵たちが次々と足を取られる。
「うわっ!」
「掴まれ!」
「誰か! 手を!」
水そのものに流される者は多くない。
だが、軍列は完全に乱れた。
荷馬が暴れ、荷車が横転する。
積まれていた麦の袋が水へ落ち、樽が転がっていく。
「兵糧が!」
「構うな! 人を助けろ!」
騎士団長の怒声が響く。
「縄を使え! 流された者を引き上げろ! 川へ入るな!」
兵たちが必死に救助へ動く。
さらに悲惨だったのは、軍列の後方だった。
「動かん!」
「押せ!」
「駄目です! 車輪が!」
攻城兵器の巨大な車輪が、ぬかるんだ街道へ沈んでいた。
何人もの兵が押しても動かない。
別の荷車が横転し、その後ろから来た車両まで立ち往生する。
攻城兵器を運ぶ列が、完全に止まった。
高所へ逃れた賢者は、その光景を見ていた。
「……なるほどのう」
「何がだ!」
騎士団長が怒鳴る。
賢者は足元の泥を杖で突いた。
「水で我らを流すことが狙いではない」
騎士団長が振り向く。
「見てみい」
街道は泥に覆われていた。
横倒しになった荷車。
立ち往生する攻城兵器。
散乱する物資。
「道を殺したのじゃ」
「…………」
騎士団長は泥へ沈んだ車輪を見た。
そして、ようやく昨日から続いていた違和感の意味を理解し始めていた。
◆
濁流の勢いが弱まり始めた。
だが、王国軍に安堵する暇はなかった。
「こっちだ!」
「負傷者を運べ!」
「荷車を起こせ!」
兵たちは泥に足を取られながら、流された仲間や物資の救助に追われている。
その時。
王国軍の右手。
水が流れてきた森の中で、百人の兵が立ち上がった。
先頭に立つ望月六郎が、泥にまみれた王国軍を眺める。
「頃合いじゃな」
刀を抜いた。
「望月隊!」
「応!」
「殿より、お客人の接待を仰せつかった」
兵たちが武器を構える。
「随分と大勢の客人じゃ。まずは我ら百人で馳走してやろうぞ」
「応!」
望月が刀を振り下ろした。
「参る!」
百人が森から飛び出した。
◆
「真田だ!」
「右手より真田軍!」
救助に当たっていた王国兵が振り返る。
「数は!?」
「百ほど!」
「百?」
一瞬、兵たちが呆気に取られた。
三万を超える王国軍へ、僅か百人で突撃してきた。
「迎え撃て!」
「盾兵、前へ!」
兵たちが集まろうとする。
だが、足元は泥だった。
「うわっ!」
一人が滑り、後ろの兵を巻き込んで倒れる。
「押すな!」
「早く並べ!」
「足が抜けん!」
そこへ望月隊が突っ込んだ。
「崩せ!」
「応!」
望月の刀が王国兵の槍を弾く。
真田兵たちは一か所に留まらない。
崩れている場所へ突っ込み、兵が集まり始めればすぐに離れ、また別の場所を突く。
「逃げるな!」
「敵は百しかおらん!」
「囲め!」
王国側の指揮官も必死に兵をまとめ始めた。
少しずつ盾兵が集まり、弓兵も動き始める。
だが、その度に泥が邪魔をする。
たった百人。
されど今の王国軍にとって、その百人を押し返すことすら容易ではなかった。
◆
「申し上げます!」
前方にいた騎士団長のもとへ、伝令が駆け込んだ。
「後方に真田軍!」
「数は!」
「およそ百!」
「百?」
騎士団長の眉が動く。
「僅か百で突撃してきたと申すか?」
「はっ!」
賢者が後方を見る。
「随分と思い切ったことをするのう」
「違う」
騎士団長が馬首を返した。
「あの百なら、今の我が軍を崩せると踏んだのだ」
剣を抜く。
「騎士団、反転! 後方へ戻る!」
王国最精鋭の騎士たちが、一斉に馬首を返した。
◆
「望月様!」
一人の真田兵が駆けてくる。
「騎士団が戻り始めました!」
「左様か」
望月は即座に刀を振った。
「退くぞ!」
「応!」
さっきまで猛烈に攻めていた百人が、一斉に反転した。
「逃げるぞ!」
「追え!」
「今度こそ逃がすな!」
怒りに燃えた王国兵たちが追いかける。
望月隊は森へ向かって走った。
「追え! 百しかおらん!」
王国兵が森へ飛び込もうとする。
「追うな!」
怒声が響いた。
戻ってきた騎士団長だった。
「全軍、その場に留まれ! 森へ入るな!」
「しかし団長!」
「今ならば追いつけます!」
「だから追うなと言っている!」
騎士団長は望月隊が消えた森を睨んだ。
「ここまで我らを翻弄してきた真田が、百だけを寄越して終わるものか」
「…………」
「隊列を立て直せ! 負傷者の救助を優先しろ!」
王国兵たちの足が止まった。
◆
森の中。
望月隊が木々の間を走り抜けていく。
そのさらに奥では、別の一隊が息を潜めていた。
根津甚八が木の陰から、森の入口を見ている。
「…………」
来ない。
もう少し待つ。
やはり来ない。
「……来ぬな」
「はい」
「一人もか?」
「一人も参りませぬ」
甚八はしばらく森の入口を眺めた。
「せっかくお客人の接待を仰せつかったというに……」
「残念にございますな」
「まことにな」
そこへ望月隊が戻ってきた。
「甚八」
「おお、望月殿」
「客人は?」
甚八は首を横に振った。
「来なんだ」
「左様か」
望月も森の入口を見る。
「敵にも、戦の分かる者がおるらしい」
「困った客人じゃ」
甚八は残念そうに息を吐いた。
◆
王国軍では、ようやく混乱が収まり始めていた。
騎士団長は泥に沈んだ荷車を見ながら、険しい顔をしている。
賢者が隣へ来た。
「追わなくてよかったのか?」
「ああ」
「敵は百しかおらなんだぞ」
「だからだ」
「ほう?」
「百で三万の軍へ突撃する者が、退路に何の備えもしておらぬと思うか?」
賢者が森を見る。
「伏兵か」
「おそらくな」
「なるほどのう」
賢者は泥だらけになった街道を見渡した。
「しかし、随分とやられたものじゃ。たった百人に」
「違う」
「何がじゃ?」
「我らを崩したのは、あの百人ではない」
騎士団長は周囲を見る。
泥へ沈んだ攻城兵器。
横倒しになった荷車。
流された兵糧。
救助に走り回る兵。
「奴らは、我らが百の兵にも抗えぬ時を作ったのだ」
賢者はしばらく黙っていた。
「……真田幸村か」
「ああ」
騎士団長は地図を開いた。
昨日の隘路。
そして今日、水が襲ってきた場所。
「隘路そのものが罠ではなかった」
「何?」
「あの場所で我らを襲えば、こちらも備えていた。だから何もしなかった」
騎士団長の指が地図の上を動く。
「我らは隘路を抜けたことで安堵した。軍列は長く伸び、後続が次々と押し出された。その先で、奴は川を戻した」
賢者が目を細めた。
「抜けた後まで含めて、罠じゃったということか」
「……そういうことだ」
騎士団長は地図から顔を上げた。
ベルナールはまだ先にある。
だが、その距離が昨日までより遥かに遠く感じられた。
◆
「望月六郎、ただ今戻りました」
「ご苦労」
山中の陣へ戻った望月を、幸村が迎えた。
「如何であった」
「存分に暴れて参りました」
「甚八は?」
望月が僅かに笑う。
「客人が来ぬと、たいそう残念がっておりまする」
「左様か」
幸村も笑った。
「敵の将に止められました。追撃はございませなんだ」
「やはり、戦を知る者がおるようじゃな」
「はい」
海野六郎が尋ねる。
「敵の損害は?」
「水に流された者の数は分かりませぬ。されど兵糧、荷車、荷馬、攻城兵器には相当の痛手を与えたものと」
「左様か」
幸村は地図へ目を落とした。
「殿」
「なんじゃ、六郎」
「敵は既に疲れ、兵糧を失い、攻城兵器にも損害を受けておりまする。此度の水にて、街道もしばらくは使い物になりますまい」
「うむ」
「そろそろにございますか?」
幸村は少し考えた。
そして、首を横に振る。
「まだじゃ」
望月が笑った。
六郎も、今度は何も言わなかった。
王国軍はいまだ三万を超えている。
されど兵は疲れ、兵糧を失い、攻城兵器は泥に沈み、進むべき街道まで傷ついた。




