上田①
王国軍本隊、およそ三万三千。
王都を出た時の威容は、いまだ大きく損なわれてはいなかった。
街道を埋め尽くす兵、その頭上に幾重にも連なる旗。後方には兵糧や矢玉を積んだ荷車が続き、さらにその後ろには攻城兵器と、その部材を運ぶ車列が長々と伸びている。
これほどの軍勢を前にして、正面から立ちはだかる者などいるはずがない。
少なくとも、王太子アレクシスはそう考えていた。
だが、進めば進むほど妙なことに気づく。
人がいない。
通り過ぎる村には誰もおらず、畑にも人影はない。家々を調べても、すぐに食えるようなものはほとんど残されていなかった。
「逃げ出したか」
馬上のアレクシスは、無人となった村を見て満足そうに笑った。
「我が軍の威容を見れば当然であろう」
「まことに。真田とやらも、領民を捨てて逃げ回っているのでしょう」
取り巻きの貴族たちが口々に囃し立てる。
その少し後ろで、騎士団長は無人の家々を眺めていた。
荒らされた様子がない。
慌てて逃げたのではない。
必要な家財は運び出され、食料になりそうなものも残されていなかった。
「……違う」
「何がじゃ?」
隣を進む賢者が尋ねる。
「逃げたのではない。退かせたのだ」
「じゃろうな」
賢者は興味なさそうに答えた。
「我らが来るより前に、村ごと空にしておる」
騎士団長は街道の先へ目を向けた。
「真田幸村……何をするつもりだ」
◆
「来たぜ」
木の上から街道を眺めていた佐助が、にやりと笑った。
眼下を王国軍の車列が進んでいる。
狙うのは先頭ではない。
長く伸びきった軍列の後方、兵糧を積んだ荷車とその護衛だった。
佐助が片手を上げる。
木陰に伏せた真田兵たちは、息を潜めたまま動かない。
兵が通る。
荷車が通る。
さらに兵。
また荷車。
道が細くなったところで列が伸び、前の一団との間に距離が開いた。
佐助の手が下がった。
「今!」
森から一斉に矢が飛んだ。
「敵襲!」
「どこだ!」
「森だ!」
王国兵たちが盾を構える。
だが、真田兵が狙っていたのは兵ではない。
馬が矢に驚いて暴れ、荷車同士がぶつかった。
「馬を押さえろ!」
「荷を守れ!」
兵たちが混乱する中、別の一隊が森から飛び出す。
荷車へ取りつき、車輪を壊す。持ち出せる物は抱え、運べぬ物には火を放った。
「真田だ! 逃がすな!」
王国兵が駆けつけた時には、真田兵は既に森へ消え始めていた。
「追え!」
十数人が森へ飛び込んだ。
少し先。
木にもたれた佐助が待っている。
「遅いぞ」
「いたぞ!」
「捕らえろ!」
「おーい、こっちこっち!」
佐助が走り出した。
「待て!」
「待てって言われて待つ奴いる?」
「貴様ぁ!」
佐助は逃げた。
ただし、本気ではない。
追いつけそうで追いつけない距離を保ちながら、時折振り返る。
「ほら、頑張れ!」
「ふざけるな!」
「もうちょっとだぞ!」
王国兵たちは怒りに任せて森の奥へ入っていった。
本隊からどれほど離れたのか。
誰も気づいていない。
やがて佐助が立ち止まった。
「……?」
追ってきた兵たちも足を止める。
「どうした。もう逃げぬのか!」
「うん」
佐助が笑った。
「ここでいいから」
木々の間から、真田兵が姿を現した。
「なっ……!」
気づいた時には、もう遅かった。
◆
翌日。
別の場所で荷車が襲われた。
その翌日には、攻城兵器の部材を積んだ車両が狙われた。
街道へ木を倒され、進軍を止められたこともある。迂回しようとすれば道に穴が掘られ、穴を埋めて進み始めれば後方から煙が上がった。
王国軍が大勢で向かえば、真田兵は戦わずに消える。
少人数で追えば、戻ってくる兵が減った。
それでも三万三千の大軍から見れば、失われた兵の数など僅かなものだった。
「鼠が」
報告を受けたアレクシスは、不機嫌そうに吐き捨てた。
「正面から戦うこともできぬのか」
「殿下を恐れているのでございます」
傍らの貴族が笑った。
「我らは三万を超える大軍。真田とて、まともにぶつかれば勝ち目がないと分かっているのでしょう」
「ならば放っておけ。ベルナールまで進めばよい」
騎士団長が口を開いた。
「殿下。後方の護衛を増やすべきかと」
「何故だ?」
「失っているのは兵だけではございません。兵糧、矢玉、荷馬、それに攻城兵器まで狙われております」
「些事だ」
「しかし、このままでは――」
「三万三千だぞ」
アレクシスは騎士団長を見た。
「鼠が何匹走り回ろうと、我が軍を止められるものか」
騎士団長は黙って頭を下げた。
隣で賢者が、小さく息を吐いた。
◆
その夜。
昼間の行軍を終えた王国兵たちは、ようやく身体を横たえていた。
「疲れた……」
「明日も歩くのか」
「当たり前だろ」
「真田の奴ら、また来るかな」
「縁起でもないことを言うなよ」
昼は森を警戒し続け、荷車が襲われれば救援に向かい、道が塞がれれば撤去する。
ただ歩くだけの行軍ではなくなっていた。
「寝ようぜ」
「ああ……」
兵たちが目を閉じる。
しばらくして。
ドン……。
一人の兵が目を開けた。
ドン……。
ドドドン……。
「…………」
男が身体を起こす。
「おい」
「なんだよ……」
「太鼓だ」
「太鼓?」
ドン! ドン! ドドドン!
別の場所から叫び声が上がった。
「真田だ!」
兵たちが一斉に飛び起きる。
「敵襲か!?」
「武器を取れ!」
「どこだ!」
野営地が騒然となった。
だが、いつまで待っても敵は来ない。
「……何も来ないぞ」
「太鼓だけか?」
警戒を解き、兵たちが再び横になる。
ようやく眠りにつこうとした頃。
ドン! ドン! ドドドン!
「またか!」
再び兵が飛び起きる。
やはり何も来なかった。
それからも太鼓は鳴った。
静かになったと思えば鳴り、忘れかけた頃にまた鳴る。
特に怯えたのは、以前の討伐軍から生き残った兵たちだった。
「あの太鼓だ……」
「何を言っている?」
「知らないのか……あれが鳴った後、俺たちは……」
男はその先を言えなかった。
真田の太鼓。
その音を聞くだけで、あの日の戦場が蘇る。
結局、その夜。
王国軍の多くの兵が、まともに眠ることはできなかった。
◆
翌朝。
目の下に隈を作った兵たちが、再び歩き始めた。
騎士団長は馬上から、その様子を見ていた。
歩みが遅い。
昨日までなら詰まらなかった場所で、軍列が止まる。
荷車も遅れていた。
さらに後方には、攻城兵器を運ぶ車列がある。
「このままでは、ベルナールへ着く頃には兵たちは戦どころではないぞ」
隣を進んでいた賢者が鼻を鳴らした。
「その前に着けるのか?」
「何?」
「後ろを見てみい」
騎士団長が振り返る。
長く伸びた軍列の遥か後方。
攻城兵器を運ぶ車列が、また止まっている。
「一番足の遅い攻城兵器は散々じゃぞ。車輪を壊され、荷馬を狙われ、道を塞がれ、その度に足を止めておる」
「……奴ら、初めから狙っているのか」
「兵糧だけではないようじゃな」
騎士団長の顔が険しくなる。
攻城兵器が失われれば、城を落とす手段は限られる。
「これでは、よしんばベルナールへ辿り着いたとしても……」
「力攻めしかないじゃろうな」
賢者はあっさり言った。
「三万の兵がおる。それでも落とせると殿下はお考えだろう」
「三万がおっても、腹が減り、眠れず、疲れ果てていては戦えぬ」
「そういうことじゃ」
賢者は前を向いた。
「それに妙だと思わぬか?」
「何がだ」
「真田は一度も我らと勝負をしておらん」
騎士団長は黙った。
「荷を襲えばすぐ退く。兵を誘えば少し削って消える。夜になれば太鼓を鳴らすが、大軍で夜襲を仕掛けてくるわけでもない」
「……勝つつもりがない?」
「今は、な」
騎士団長が街道の先を見た。
「我らを疲れさせている」
「さて、それだけかのう」
賢者の言葉に、騎士団長は答えなかった。
◆
それからも、騎士団長は斥候を絶やさなかった。
真田兵を探すだけではない。
街道の先。
山の形。
川。
森。
軍を進める上で危険になりそうな場所を、一つずつ調べさせていた。
そして、その報告の中に気になるものがあった。
騎士団長は地図を広げた。
「……ここか」
ベルナールへ続く道の途中。
両側を険しい斜面に挟まれた、狭い道がある。
大軍が横へ広がれない。
前後に長く伸びざるを得ない地形だった。
「殿下にお目通りを」
◆
「隘路?」
アレクシスが地図を見る。
「はい。この先にございます」
騎士団長が地図の一点を指した。
「我が軍三万余が一度に通ることはできませぬ。真田が我らに仕掛けるならば、この地が最も危険かと」
「また鼠どもの罠か」
「可能性は高いかと存じます」
取り巻きの一人が笑った。
「ならば焼き払えばよいではありませんか」
騎士団長が冷たい目を向ける。
「山をか?」
「…………」
男は黙った。
アレクシスが騎士団長を見る。
「どうする」
「斥候を増やします。斜面にも兵を出し、伏兵の有無を調べた上で進むべきかと」
アレクシスはしばらく考えた。
ここまでの行軍で、真田には散々煩わされている。
さすがに同じように好き勝手させるつもりはなかった。
「よかろう」
「はっ」
「お前が先頭に立て」
騎士団長が顔を上げた。
「私が?」
「王国最精鋭の騎士団を前方へ置く。真田が現れれば、その場で叩き潰せ」
「……御意」
騎士団長は深く頭を下げた。
◆
翌日。
王国軍の陣形が変わった。
先頭には、騎士団長率いる王国最精鋭の騎士団。
その前を多数の斥候が進み、左右の斜面にも兵が入っていく。
兵士たちの間にも、久しぶりに安堵の声が広がっていた。
「騎士団長がおられる」
「これなら真田も手を出せまい」
「あの鼠どもも終わりだ」
やがて隘路が見えてきた。
騎士団長は馬を止める。
「斥候は?」
「異常ございません!」
「斜面は」
「人影なし!」
「もう一度調べろ」
「はっ!」
騎士団長は急がなかった。
これまで真田は、焦った者から罠へ落としている。
ならば焦らなければよい。
再び斥候を出す。
それでも何も見つからない。
「進むぞ。ただし隊列を乱すな」
騎士団が隘路へ入った。
左右には険しい斜面。
騎士団長は何度も上を見た。
矢が飛んでくる気配はない。
岩も落ちてこない。
兵の姿すらない。
さらに進む。
何も起こらない。
後続の部隊も慎重に隘路へ入った。
やがて先頭の騎士団が、反対側へ抜けた。
「…………」
騎士団長は馬上から振り返った。
何もない。
本当に、何もなかった。
しばらくしてアレクシスの本隊も隘路を抜ける。
「はははは!」
アレクシスが笑った。
「何もおらぬではないか!」
取り巻きたちも笑い始める。
「騎士団長を恐れて逃げたのでございましょう!」
「真田とて、王国最精鋭を前にすれば手も足も出ぬようですな!」
騎士団長は笑わなかった。
ゆっくりと隘路を振り返る。
「……違う」
隣にいた賢者が眉を上げた。
「何がじゃ?」
「ここではなかった」
「ほう」
「真田がこの地を知らぬはずがない」
これまでの戦いを思えば分かる。
道一本。
森一つ。
地形を知り尽くしたように襲撃を繰り返してきた者たちが、この隘路だけを知らないなどあり得ない。
「これほど仕掛けるに適した場所で、何もしてこなかった」
騎士団長の目が細くなる。
「ならば、奴らは……」
賢者も隘路を振り返った。
「我らがここを警戒すると知っておったか」
「……いや」
騎士団長は小さく首を振った。
「分からん」
だが、一つだけ確かなことがある。
真田はまだ何かを待っている。
◆
その頃。
隘路から離れた山中に、佐助の姿があった。
「旦那、通ったぞ」
「うむ」
「本当に何もしなくてよかったのか?」
佐助は少し惜しそうな顔をした。
「あそこ、仕掛けるには最高だったぜ」
「ゆえに、せぬ」
「ん?」
幸村は笑った。
「我らがそう思う場所ならば、敵もそう思う」
六郎が頷く。
「なるほど。敵が最も警戒しておる場所で、あえて戦う必要はございませぬな」
「うむ」
佐助が隘路の方角を振り返った。
「でもさ、旦那」
「なんじゃ」
「面白い奴がいる」
「ほう」
「騎士団を前に出した奴だよ。斥候の数も増えたし、斜面までかなり念入りに調べてた。王子じゃないだろ、あれ」
幸村の表情が僅かに変わった。
「敵にも戦を知る者がおるか」
「多分な」
六郎が尋ねる。
「佐助。騎士団を前へ出したことで、他に変わったところはあるか」
「ある」
佐助が笑った。
「後ろが薄くなった」
「後ろ?」
「荷車も攻城兵器も後ろだ。騎士団を前に集めた分、今までより守りが薄い」
六郎が幸村を見る。
幸村は少し考え、やがて笑った。
「左様か」
「やる?」
「いや」
佐助が意外そうな顔をする。
「今夜は休め」
「え?」
「太鼓も鳴らさぬ」
佐助と六郎が幸村を見る。
幸村は王国軍が進んでいった方角へ目を向けた。
「今宵くらいは、ゆるりと眠ってもらおう」
六郎が僅かに笑った。
佐助も、その意味に気づく。
「……なるほど」
幸村はそれ以上何も言わなかった。
その夜。
何日も王国軍を苦しめ続けた太鼓は、初めて鳴らなかった。




