沼田 II
沼田へ来て、数日が過ぎた。
「それはあっちじゃ!」
「違うよ!」
「合っておる!」
「合ってない!」
倉の前で、銭とカミーユの声が響いていた。
周囲では童組の子供たちが、荷車から降ろされた荷を次々と運んでいる。
上田をはじめ、各地から集められた兵糧や物資である。
沼田は今回の戦における物資の集積地となっていた。
麦。
豆。
干し肉。
塩。
矢。
薬。
運び込まれた物はここで仕分けされ、必要な場所へ送られていく。
銭たち童組にも、その手伝いが任されていた。
「銭ちゃん、それ麦!」
「分かっておる!」
「じゃあ、なんで塩の方へ持っていくの!」
「…………」
銭は抱えていた袋を見る。
次に、荷札を見る。
「……字が悪い」
「人のせいにしないの!」
カミーユが銭から袋を取り上げた。
「こっち!」
「分かっておった!」
「絶対分かってなかった!」
「組長に向かって生意気じゃぞ!」
「副長だから言ってるの!」
近くにいた子供たちから笑い声が上がった。
そんな二人を少し離れた場所から見ていた鎌之助も、呆れたように笑っている。
「まったく、元気な奴らだ」
少なくとも、その時までは。
沼田は平穏だった。
◆
「急報!」
昼過ぎ。
一人の兵が沼田の館へ駆け込んできた。
「王国軍を確認!」
館にいた者たちの表情が変わった。
「数は!」
「およそ五千!」
ざわめきが起こる。
「こちらへ向かって進軍中! このままの速さであれば、明日には沼田から目視できる位置まで迫るものと思われます!」
「五千……」
誰かが呟いた。
その声に答える者はいなかった。
◆
ほどなくして、沼田の館では軍議が開かれた。
しかし。
集まった者たちの顔は、誰もが険しかった。
それも当然だった。
現在、沼田に残されている兵は二百ほど。
先の戦で、兵を率いることのできる騎士の多くを失っていた。
今この館にいるのは、領地の管理や物資の差配を担ってきた文官たちがほとんどである。
二百対五千。
まともに戦えばどうなるか。
戦を知らぬ者にさえ分かった。
「由利様」
一人の文官が、鎌之助へ顔を向けた。
「なんだ」
「……何とかなりましょうか?」
「ならん」
「え?」
あまりにも早い返事に、文官が目を丸くした。
「我は軍略など分からん」
鎌之助は腕を組む。
「突撃せよと言われれば、百や二百の首は取って来れるが――」
鼻を鳴らした。
「その程度だ」
「…………」
文官たちが顔を見合わせた。
「百や二百を、その程度と申されましても……」
「五千いるんだろう?」
「は、はい」
「二百斬っても四千八百だ」
「それは……そうですが……」
「だから、我に聞くな」
何の解決にもならなかった。
再び沈黙が落ちる。
やがて、別の文官がおずおずと口を開いた。
「では……上田へ避難されてはいかがでしょう」
皆の視線が集まった。
「敵がここへ到達するまで、まだ一両日はございます。今ならば間に合うやもしれませぬ」
「そうだ」
「持ち出せるだけの物資を持ち出し、上田へ――」
「駄目です!」
声が響いた。
カミーユだった。
「カミーユ様?」
皆が少女を見る。
カミーユは緊張した様子で立っていた。
怖くないわけではない。
それでも拳を握り、口を開く。
「真田様は、敵だった私たちを信じてくださいました」
文官たちが黙る。
「それなのに……」
カミーユは続けた。
「任された沼田を、何もせずに捨てて逃げたとあっては……」
一度、唇を噛む。
「もう、許してもらえません!」
「しかし、カミーユ様」
文官の一人が困ったように首を振った。
「我らとて、この地を捨てたいわけではございません」
「なら!」
「されど、二百対五千です」
地図を見る。
「どう考えても……」
別の文官も俯いた。
「勝ち筋が見つかりませぬ」
「…………」
カミーユも言葉を失った。
気持ちだけでは五千の兵は止められない。
「籠城しても、いずれ破られましょう」
「援軍の当てもない」
「ならば、やはり今のうちに――」
「……なあ」
小さな声がした。
皆が振り返る。
部屋の隅。
そこに銭がいた。
先ほどから、大人たちの話を黙って聞いていた。
「なんで勝とうとしてるんじゃ?」
「……は?」
一人の文官が聞き返した。
銭は不思議そうな顔をしている。
「だから」
もう一度言った。
「俺たち、勝たなくてもよいじゃろ?」
「何を申しておるのです」
「敵が来るんじゃろ?」
「そうです。五千もの兵が!」
「うむ」
「ならば勝たなければ、沼田を奪われます!」
銭は少し考えた。
「すぐには奪われんじゃろ?」
「……何?」
「殿がおる」
銭は当たり前のように言った。
「真田様が?」
「うむ」
銭は上田の方角を指した。
「殿は今、上田で敵と戦っておるんじゃろ?」
「……はい」
「殿は勝つ」
迷いのない言葉だった。
あまりにも当たり前のことを話しているような口調だった。
「なら、殿が敵を倒してここへ来るまで、持ち堪えればよいではないか」
「…………」
「五千を全部倒さなくてもよいんじゃろ?」
誰も答えなかった。
「一日でも、二日でも、三日でも」
銭は指を折って数えた。
「ここを取られなければ、それで俺たちの勝ちじゃ」
鎌之助が銭を見る。
その目が僅かに見開かれた。
以前の銭なら。
大人たちがこれほど慌てていれば、一緒になって不安そうな顔をしていただろう。
それが今は違う。
敵が五千いると聞いても。
逃げるべきだと言われても。
銭の中には一つだけ、揺るがぬものがある。
幸村は勝つ。
それを疑ってすらいない。
だから、その先を考えられる。
「……はっ」
鎌之助が小さく笑った。
「由利様?」
「いや」
鎌之助が立ち上がる。
「銭の言う通りだ」
「しかし――」
「我らが五千を倒す必要はない」
鎌之助は地図の前へ進んだ。
「殿が来られるまで、この地を守ればよい」
文官たちが地図を見る。
「敵を倒すのではなく……」
「時間を稼ぐ……」
「それならば……」
先ほどまでとは違う言葉が出始める。
「街道を塞いでは?」
「使える荷車がある」
「橋にも兵を置きましょう」
「物資も一か所に集めておくのは危険だ。分けた方がよい」
少しずつ。
止まっていた頭が動き始める。
鎌之助はそれを見てから、銭へ振り返った。
「銭」
「なんじゃ?」
「お前、いつの間にそんなこと考えるようになった?」
銭が胸を張った。
「ふふん。俺は組長じゃからな!」
「組長は関係ないだろ」
「ある!」
「ない」
「ある!」
鎌之助は笑った。
「……殿に似てきたな」
銭の目が輝いた。
「本当か!?」
「そこまで喜ぶか?」
「当たり前じゃ!」
「はいはい」
鎌之助が銭の頭を乱暴に撫でる。
「わっ! やめろ!」
「少しは大人しくしろ」
「俺は組長じゃぞ!」
「知るか」
「鎌之助!」
カミーユが堪えきれずに笑った。
それにつられるように、文官たちの間からも小さな笑いが漏れる。
先ほどまで館を覆っていた重苦しい空気が、ほんの少しだけ和らいだ。
◆
それから沼田は、一斉に動き始めた。
兵糧や物資を分散させる。
街道へ斥候を出す。
使える荷車を集める。
敵が進んでくる道を調べる。
橋や狭い道には兵を配置する。
戦えぬ者は、より安全な場所へ移す。
勝つためではない。
時間を稼ぐために。
たった二百の兵で、五千を相手に。
一日でも長く。
半日でも長く。
沼田を守る。
それが、この地に残った者たちの戦となった。
◆
夕刻。
再び斥候が館へ駆け込んできた。
「申し上げます!」
「どうした」
鎌之助が振り返る。
「王国軍、進軍を続けております!」
「距離は?」
報告を聞き、鎌之助の顔から笑みが消えた。
「……思ったより早いな」
「このままならば、明日には確実に姿を確認できる距離まで参ります」
「上田から何か知らせは?」
「ございません」
「援軍は?」
「確認できておりません」
「そうか」
鎌之助は短く答えた。
「引き続き見張れ。何か変わればすぐ知らせろ」
「はっ!」
兵が走り去っていく。
敵は五千。
こちらは二百。
そして、援軍が来ることを沼田の者たちはまだ知らない。
◆
その夜。
童組の子供たちは早々に寝かされていた。
カミーユも眠っている。
だが。
銭は目を開けていた。
「…………」
眠れない。
昼間、自分は言った。
勝たなくていい。
殿が来るまで持ち堪えればいい。
それは本当にそう思っている。
殿は負けない。
必ず勝つ。
でも。
「……どうやって持ち堪えるんじゃ」
銭は小さく呟いた。
敵は五千。
こちらは二百。
五千。
五千。
何度考えても、とんでもなく多い。
その時だった。
銭は幸村たちが話していたことを思い出した。
大勢の兵を動かすには、大量の兵糧が要る。
人は腹が減れば戦えない。
「…………」
銭が身体を起こした。
「五千人……」
五千人の兵がいる。
ならば。
五千人が食べる飯もある。
「飯がなければ……」
銭の目が細くなる。
「戦えんのじゃろ」
そして隣を見る。
眠っている子供たち。
その中から一人を見つけた。
銭は這うように近づくと、その肩を揺すった。
「アーニー」
「……ん……」
「アーニー」
「……なに……?」
「起きろ」
眠そうに目を開けた少年。
アーニーだった。
「まだ夜だよ……」
「敵の飯を燃やしに行くぞ」
「…………」
アーニーの目が開いた。
「は?」
「敵の飯を燃やすんじゃ」
「…………」
「行くぞ」
「行かないよ!」
危うく大声を出しかけたアーニーの口を、銭が慌てて塞ぐ。
「静かにせい!」
「むぐっ!」
「皆が起きるじゃろ!」
銭が手を離す。
アーニーは声を潜めながら、それでも必死に抗議した。
「何考えてるんだよ! 敵は五千人いるんだぞ!」
「知っておる」
「捕まったらどうするんだよ!」
「捕まらなければよい」
「そういう話じゃない!」
「来ぬのか?」
「行かない!」
「本当に?」
「絶対に行かない!」
「…………」
銭はしばらくアーニーを見つめた。
「分かった」
アーニーがほっと息を吐く。
「よかった……」
「今日からお前は五の子分じゃ」
「…………え?」
「三の子分から五の子分に降格じゃ」
「なんでだよ!」
「しっ!」
「むぐっ!」
再び口を塞がれる。
「皆が起きると言っておるじゃろ!」
アーニーは銭の手を振り払った。
「誰のせいだよ!」
「では、俺は行く」
銭が立ち上がる。
「待てよ!」
「なんじゃ、五の子分」
「もう五なの!?」
「さらばじゃ」
「…………」
銭が歩き出す。
アーニーはその背中を見つめた。
頭を抱える。
しばらく悩み。
そして。
「……分かったよ!」
銭が振り返った。
「行くよ! 行けばいいんだろ!」
「本当か?」
「三の子分に戻してくれるんだろうな!」
銭は少し考えた。
「働き次第じゃ」
「戻すって言えよ!」
「しっ!」
「だから誰のせいだよ!」
二人は顔を見合わせた。
「行くぞ、アーニー」
「……絶対これ怒られるよ」
「見つからなければ怒られん」
「そういう問題じゃないと思う……」
銭は棒を手に取った。
アーニーも渋々立ち上がる。
二人は眠っているカミーユたちを起こさぬよう、そっと部屋を抜け出した。
外は暗い。
見張りの目を避け、建物の陰から陰へ。
二人の子供が夜の沼田を抜けていく。
向かう先は一つ。
五千の王国兵がいる場所。
そして。
五千人分の飯がある場所。
銭はまだ知らなかった。
この小さな思いつきが。
沼田を巡る戦の行方を、大きく変えることになるとは。




