沼田 I
王国軍出陣の報が届いた翌朝。
上田では、戦支度とは別の慌ただしさがあった。
「忘れ物はないか!」
「ない!」
「本当か?」
「たぶん!」
「たぶんでは駄目じゃ!」
銭が声を張り上げると、荷物を抱えた子供たちから笑い声が上がった。
童組である。
その傍らでは、大人たちが荷車へ次々と荷を積み込んでいた。
行き先は沼田。
王国ではアルノーと呼ばれていた土地である。
王国軍が上田へ向けて動き出したことで、幸村は銭や童組を沼田へ移すことに決めていた。
沼田は上田の北東に位置し、今では真田領内の物資を集める拠点の一つとなっている。
今回の戦でも兵糧や物資の供給地として使われる予定であった。
物資の仕分けや運搬など、童組にもできる仕事はある。
そして何より、幸村は沼田が主戦場になるとは考えていなかった。
ならば銭たちを上田に残すよりは安全である。
「銭」
呼ばれて、銭が振り返った。
「殿!」
幸村が歩いてくる。
その後ろには六郎と鎌之助もいた。
「支度はできたか?」
「できた!」
「左様か」
幸村が荷車を見る。
食料、衣服、薬。
子供たちがしばらく暮らすのに必要な物も積まれている。
銭が幸村を見上げた。
「殿」
「なんじゃ」
「俺も残ってはいかんのか?」
「ならぬ」
即答だった。
銭の頬が膨らむ。
「俺も戦える」
「知っておる」
「棒だって前より上手くなった」
「それも知っておる」
「なら――」
「銭」
幸村が銭の頭に手を置いた。
「戦えるからと申して、戦わねばならぬわけではない」
「…………」
「此度の敵は多い。戦となれば、上田の周りも騒がしくなろう」
銭はまだ納得していない顔をしている。
幸村は少し笑った。
「それにな。沼田へ遊びに行けと申しておるわけではないぞ」
「?」
「向こうにも役目はある」
銭の表情が変わった。
「役目?」
「うむ」
幸村は童組の子供たちを見る。
「兵糧や物資が次々と運び込まれる。仕分けや運ぶ手伝いくらいなら、お主らにもできよう」
「できる!」
「それに、お主は組長なのであろう?」
銭が胸を張った。
「そうじゃ!」
「ならば皆をまとめよ」
「俺が?」
「うむ。立派な役目じゃ」
膨らんでいた銭の頬が、見る見る元へ戻っていく。
「分かった!」
実に分かりやすい。
六郎が小さく笑った。
「それから――カミーユ」
「はい!」
少し離れたところにいた少女が駆けてきた。
童組副長、カミーユである。
「沼田では、お主にも皆をまとめてもらう」
「……私が?」
「うむ」
カミーユが目を丸くした。
「そ、そんな……私にできるでしょうか」
「何を慌てておる!」
横から銭が胸を張った。
「童組組長の俺が居る。副長よ、安心せよ!」
「その組長が一番心配なの!」
「なんじゃと!」
童組の子供たちから、どっと笑い声が上がった。
「俺は組長じゃぞ!」
「だから心配なの!」
「副長のくせに生意気じゃ!」
「組長がしっかりしてないからでしょ!」
二人の言い合いを聞きながら、幸村も笑った。
「鎌之助」
「はっ」
由利鎌之助が前へ出る。
「お主も同行せよ」
「承知いたしました」
鎌之助は迷うことなく頭を下げた。
◆
やがて出立の時となった。
童組を乗せた荷車が、ゆっくりと動き始める。
「殿!」
荷車から銭が身を乗り出した。
「行ってくる!」
「うむ」
「戦に勝てよ!」
六郎が思わず目を丸くした。
「銭。殿に向かって――」
「よい」
幸村が笑って手を上げた。
「任せておけ」
「うん!」
銭も大きく手を振った。
「銭ちゃん! 危ないよ!」
「大丈夫じゃ!」
「落ちるって!」
カミーユに服を引っ張られ、銭が荷車の中へ消えた。
幸村はその様子を笑いながら見送った。
列の最後尾には鎌之助がいる。
幸村が目を向けると、鎌之助もそれに気づいた。
「鎌之助」
「はっ」
幸村の声が少し低くなる。
「あやつらを頼む」
鎌之助は一度、遠ざかっていく銭たちを見た。
そして幸村へ向き直る。
「お任せくだされ」
鎌之助は力強く頷いた。
「この鎌之助、必ずや守ってみせまする」
「うむ」
幸村も頷く。
「頼んだぞ」
「はっ!」
鎌之助は頭を下げ、銭たちを追って歩き出した。
幸村は、その背中が見えなくなるまで見送っていた。
◆
それから数日が過ぎた。
王国軍は上田へ向けて進軍を続けていた。
三万八千という大軍である。
その歩みは、決して速くない。
兵だけではない。
馬がいる。
大量の兵糧を積んだ荷車がある。
武具や矢を運ぶ荷駄もある。
道が狭くなれば軍列は長く伸び、坂へ入ればさらに速度が落ちる。
そして、その周囲には時折、見慣れぬ影が現れた。
山の中。
木々の間。
街道から離れた高台。
王国兵が気づいた時には、もういない。
真田の忍びたちである。
まだ攻撃はしない。
ただ見る。
兵の数。
進む速さ。
荷駄の量。
どの貴族がどこにいるか。
それらを確かめては、姿を消す。
王国軍はまだ知らない。
すでに自分たちが、真田の目の中を歩いていることを。
◆
上田。
幸村と六郎は地図を挟んで向かい合っていた。
「思ったより遅いのう」
「三万八千ともなれば、致し方ございますまい」
「兵糧を食うために兵糧を運び、その兵糧を運ぶ者もまた飯を食う」
「大軍とは、動かすだけでも一苦労にございますな」
「うむ」
幸村が笑った。
「ならば、もっとゆっくり来てもらおう」
六郎も笑う。
「佐助たちに?」
「まだ手を出すなと伝えておる」
「では?」
「見ておればよい」
幸村は地図を指した。
「敵が山へ入ってからじゃ」
道が狭くなる。
逃げ道も少なくなる。
大軍であることが、重荷へと変わる場所。
そこからが真田の戦である。
その時だった。
「旦那!」
聞き慣れた声がした。
猿飛佐助が広間へ入ってくる。
「戻ったか」
「ああ」
いつもの佐助なら、軽口の一つでも叩く。
だが、今日は違った。
幸村がそれに気づく。
「何かあったか?」
「ちょいと面倒なことになった」
六郎も佐助を見る。
「申せ」
「敵が分かれた」
幸村の目が細くなった。
「どの程度じゃ」
「五千ほど」
「五千……」
六郎が地図へ目を落とす。
「どちらへ?」
佐助は地図へ近づいた。
「本隊はそのまま、こっちへ来てる」
指が上田へ向かう。
そして、もう一方の手で別の道をなぞった。
「五千はこっちだ」
北へ。
幸村の表情が変わった。
「……北?」
「ああ」
佐助の指が止まる。
その先にある地名を見て、六郎が息を呑んだ。
「沼田……」
「間違いないのか?」
幸村が尋ねる。
「まだ途中で曲がる可能性はある」
佐助は答えた。
「だが、あのまま進めば沼田だ」
幸村は黙った。
そこには銭がいる。
カミーユがいる。
童組がいる。
鎌之助もいる。
だが、幸村が口にしたのは別のことだった。
「……敵にも、目先の利く者がおるようじゃな」
六郎が頷いた。
「沼田が我らの物資の集積地であることを見抜いたのでございましょう」
「うむ」
幸村は地図を見つめた。
五千。
沼田に置いている兵だけで相手をするには多い。
そして王国軍は、すでに進軍している。
「六郎」
「はっ」
「才蔵を呼べ」
「はっ!」
◆
ほどなくして、霧隠才蔵が広間へ入ってきた。
「お呼びにございますか」
「うむ」
幸村が地図を指す。
「王国軍の一部が沼田へ向かった」
才蔵の目が地図へ落ちる。
「その数、五千」
「…………」
「才蔵」
「はっ」
「五百を預ける」
幸村は才蔵を見る。
「沼田へ走れ」
「御意」
返事は一言だった。
才蔵はすぐに立ち上がる。
「待て」
幸村が呼び止めた。
才蔵が振り返る。
「急げ」
「はっ」
才蔵はすぐさま広間を出ていった。
その背を見送った六郎が、地図へ目を戻す。
「間に合いましょうか」
幸村は答えなかった。
王国軍五千は、すでに沼田へ向かっている。
才蔵の五百は、これから上田を発つ。
幸村は地図に記された『沼田』を、じっと見つめた。




