滅びの序章
王都の外に、日に日に天幕が増えていた。
北から、東から、南から。王国全土に放たれた王命を受け、諸侯が兵を率いて集まり始めている。
兵だけではない。
馬が来る。荷車が来る。槍や盾、弓矢が運び込まれ、山のような麦袋と干し肉、酒樽、馬の飼葉まで次々と王都へ集められていた。
その光景を、王太子は上機嫌で眺めていた。
「よいぞ! もっと集めよ!」
王太子の声が響く。
「まだまだ足りぬ! 上田の賊どもに、王国の力というものを見せてやるのだ!」
「はっ!」
若い貴族たちが威勢よく応じた。
王太子自身が物資集めの指揮を執り、兵が増えれば食糧を増やし、馬が増えれば飼葉を増やす。攻城に使う木材や縄、天幕に使う布まで大量に集めさせている。
王太子にとっては、これこそが戦であった。
兵を集める。
武器を集める。
食糧を集める。
その数が増えるほど、王国の力も増している。
そう信じて疑っていなかった。
「殿下」
そこへ、一人の男がおそるおそる近づいてきた。
王都で穀物を扱う商人である。
「何だ?」
「先日納めさせていただきました麦、それから干し肉と馬の飼葉の代金についてでございますが……」
差し出された紙を、王太子は面倒そうに見た。
「それがどうした?」
「支払いの期日を過ぎておりますので……」
「ならば、兵を率いてきた諸侯へ回せ」
商人は目を瞬いた。
「……は?」
「聞こえなかったか? その麦を食うのは諸侯の兵であろう。ならば、その兵を連れてきた者が払えばよい」
「し、しかし殿下。今回の出兵は王命によるものと伺っております。それゆえ、我らも王家からのご注文として品を……」
「くどい!」
王太子が声を荒らげた。
「誰の兵がどれだけ食ったかなど、こちらが知るものか! 各家へ持って行け!」
「……承知、いたしました」
商人は深々と頭を下げ、その場を離れた。
だが、それで終わりではなかった。
武器を納めた商人が来た。
馬を集めた商人が来た。
天幕を納めた者が来た。
薬を納めた者まで来た。
答えは同じだった。
「諸侯へ回せ」
ところが、請求書を持って諸侯の屋敷を訪ねれば、今度はこう言われる。
「王命による出兵だ。王家へ持って行け」
王家へ行けば諸侯へ。
諸侯へ行けば王家へ。
請求書だけが、王都を行ったり来たりすることになった。
◇
「……払う気がないな」
その日の夜。
王都の商人たちが集まる一室で、一人が呟いた。
「払わぬのではない。押し付け合っておるのだ」
「同じことだろう」
「次からは銭と引き換えでなければ、一粒の麦も渡さん」
「断れると思うか?」
「…………」
誰も答えなかった。
王命である。
断ればどうなるか。
考えるまでもない。
しばらく重い沈黙が続いた後、一人の商人が声を潜めた。
「……沼田の話を聞いたか?」
「沼田?」
「真田の土地になったところだ」
何人かが顔を上げた。
「教会の許しがなくとも商いができるようになったらしい」
「それなら聞いた。教会への寄進も必要ないとか」
「代わりに真田へ税を納めるそうだ」
「同じではないか」
「額が違う。それに、最初からいくら取るのか決められている」
室内が静かになった。
別の商人が言った。
「妙な話も聞いたぞ。真田は商人から銭を借りているそうだ」
「借りる?」
「ああ」
「奪うのではなく?」
「返す約束をして、だ」
何人かが顔を見合わせた。
王都では、王家と諸侯の間を請求書が行ったり来たりしている。
その一方で、賊と呼ばれている真田が商人から銭を借り、道を造り、商いの場所を保証しているという。
「……真田という連中、どのような者なのだ?」
「さあな」
「念のためだ」
一人の老商人が静かに言った。
「沼田へ人をやっておけ」
「真田と商うのか?」
「まだ商うとは言っておらん」
老人は杯を置いた。
「ただ、逃げ道は多い方がよい」
誰も笑わなかった。
◇
「殿下」
翌日、騎士団長は王太子の前に立っていた。
「何だ?」
「物資の支払いについて、お話がございます」
王太子が露骨に嫌そうな顔をする。
「また銭の話か」
「諸侯が率いる兵の費用については、各家との取り決めもございましょう。しかし、王国直属軍の分まで商人に支払いを待たせるのはなりません。少なくとも、直属軍の物資については王家が支払うべきです」
「ならば払えばよかろう」
「そのための財が不足しております」
「ならば民から取れ」
騎士団長の眉が動いた。
「……何を、でございますか?」
「税だ」
王太子は何でもないことのように答えた。
「今回だけ特別に徴収すればよい。国を守るための戦なのだ。民がその費用を負担するのは当然であろう」
「殿下。すでに各地から多くの男手を兵として集めております」
「それがどうした?」
「畑から男を取り、そのうえ税まで増やせば、民が持ちませぬ」
「真田を討てば終わる話だ」
「しかし」
「騎士団長殿」
横から声がした。
王太子の傍らにいた若い貴族だった。
「随分と下々の暮らしにお詳しい」
別の貴族が小さく笑う。
「出が出だけに、我らには分からぬことまでよくご存じなのでしょう」
騎士団長は黙って二人を見た。
成り上がり者。
口には出さずとも、何を言いたいのかは分かる。
「戦の話をしているのです」
若い貴族は続けた。
「税の話など役人に任せればよろしい。騎士団長殿は、兵の指揮だけ考えておられればよいのでは?」
「その兵を支えるのが民だと言っている」
「またそれですか」
笑い声が起きた。
王太子まで笑っていた。
騎士団長は何かを言おうとして、やめた。
「……承知いたしました」
「うむ」
王太子は満足そうに頷いた。
「それより兵だ。まだ足りぬ。もっと集めよ。上田など、我らの軍勢を見ただけで震え上がるほどにな!」
「はっ!」
取り巻きたちが声を上げる。
騎士団長は静かにその場を離れた。
廊下を歩きながら、拳を握る。
兵を取る。
食糧を取る。
馬を取る。
そして銭まで取る。
商人には代金すら払わない。
それで何万という兵を集めたところで、いったい何が残るというのか。
(このままでは……)
騎士団長の足が止まった。
真田に勝つか負けるか。
もはや、それだけの問題ではない。
(勝っても負けても、この国は分解する)
しばらくその場に立っていた騎士団長は、やがて歩き出した。
向かう先は決まっていた。
一人だけ。
この話をすることのできる男がいる。
◇
「帰れ」
「まだ何も言っておらん」
「お主が来た。それだけで面倒事だと分かる」
騎士団長は大きく息を吐いた。
「……昔から変わらんな」
「お主もな。面倒事がある時しか、わしのところへ来ぬ」
王都から少し離れた場所に、その男の屋敷はあった。
男は公爵家の当主である。
それだけでも王国屈指の大貴族なのだが、人々が彼を語る時、その爵位を口にすることは少ない。
誰もが、別の名で呼ぶ。
賢者。
王国最高峰の魔術師。
かつて王国が帝国によって滅亡寸前まで追い詰められた時、先王と共に戦った英雄の一人でもあった。
そして。
騎士団長にとって、ただ一人の親友だった。
「王太子殿下が上田へ向かわれる」
「知っておる」
「王国全土から兵を集めている」
「それも知っておる」
「力を貸してほしい」
「嫌じゃ」
「即答か」
「当たり前じゃ!」
賢者が机を叩いた。
「あの馬鹿どもと一緒にいたら、わしまで滅んでしまうわ!」
「気持ちは分かる」
「分かるなら帰れ」
「そうはいかん」
「お主なあ……」
賢者はうんざりした顔で椅子にもたれた。
「そもそも前の戦について、王太子は調べたのか?」
「いや」
「生き残った兵から話を聞いたか?」
「いや」
「敵がどのように戦ったのか調べたか?」
「……いや」
賢者は両手で顔を覆った。
「嫌じゃ。絶対に行かん」
「最後まで聞け」
「聞けば行きたくなるとでも?」
「戦ってくれとは言わん」
賢者の手が止まった。
「……では、何をしろと?」
「見てほしい」
「何をじゃ」
騎士団長は答えた。
「真田を」
賢者の目が細くなる。
騎士団長は、牢の男爵から聞いた話を語った。
二千五百の兵。
対する真田は五百。
最初の戦で勝ちながら追撃せず、翌日には自ら退いてみせたこと。
それを追った王国軍が狭い道へ入り、前も後ろも動けなくなったこと。
長い槍。
太鼓。
そして子爵を倒した、見えぬ攻撃。
「二千五百を、二千五百として戦わせなかった」
騎士団長が呟く。
「偶然ではない」
「…………」
「あの者たちは、勝ち方を知っている」
賢者は何も言わなかった。
「だから見てほしい」
「……何のために?」
「もし我らが敗れた時、何故敗れたのかを知る者が必要だ」
「最初から負けるつもりか?」
「勝つつもりだ」
「ならば何故、敗れた後のことを考える?」
騎士団長は少し黙った。
そして答えた。
「勝つつもりで戦うことと、負けぬと思い込むことは違う」
賢者が騎士団長を見る。
長い沈黙の後、その口元がわずかに緩んだ。
「……先王陛下も、似たようなことを言っておったな」
「ああ」
「帝国との戦の時か」
「懐かしいな」
「わしは思い出したくもない。何度死にかけたと思っておる」
「俺よりは少ない」
「数えておったのか!?」
騎士団長が少し笑った。
賢者も、呆れたように息を吐く。
ほんの一瞬だけ。
二人の間に、遠い昔の空気が戻った。
まだ先王が生きていた頃。
王国が滅びかけ、それでも三人で戦っていた頃の空気が。
やがて賢者が立ち上がった。
「……分かった」
「では」
「行くだけじゃぞ」
賢者は指を突きつける。
「わしは王太子の子守などせん!」
「構わん」
「命令も聞かん!」
「……それは少し聞け」
「嫌じゃ」
「そこは聞け」
「嫌じゃ!」
しばらく二人は睨み合った。
やがて騎士団長が折れた。
「……分かった。好きにしろ」
「最初からそう言えばよい」
「ただし」
「まだあるのか」
「何があっても、生きて帰れ」
賢者の表情から笑いが消えた。
「……お主は?」
「俺は軍を預かる身だ」
「答えになっておらんぞ」
「…………」
賢者はしばらく親友の顔を見つめていた。
「まったく」
それ以上は何も言わなかった。
◇
その日も。
王都には、新たな軍勢が到着していた。
兵が増える。
馬が増える。
武器が増える。
王太子は笑った。
貴族たちは歓声を上げた。
王国の力が、日に日に大きくなっていく。
誰もがそう信じていた。
その陰で。
商人が離れ始めていた。
民からは、さらに銭が取られようとしていた。
畑からは働き手が消えていた。
そして王国で最も戦を知る男は。
勝つことではなく。
敗れた後のことまで考え始めていた。
大軍は、まだ膨れ続けている。
誰も気づいてはいなかった。
王国がその身を削りながら集めていることに。
後に王国を揺るがすことになる大戦。
その準備は着々と進んでいた。
そして同時に。
王国の滅びもまた。
静かに、始まっていた。




