銭の道
ロダン家が真田の臣となってから、数日。
上田の領主館では、海野六郎が一冊の帳簿を食い入るように見つめていた。
向かいにはロダン家に仕える年嵩の文官が座り、その隣では根津甚八が別の帳簿をめくっている。
「……これは村ごとの人口か?」
「はい。昨年のものになりますが、こちらにございます」
「では、こちらは?」
「農地ごとの収穫量です」
「この数字は?」
「各倉に保管されている麦の量にございます。ただし、先月末のものですので、現在は多少違っているかと」
六郎の手が止まった。
「甚八」
「なんでござる?」
「まともじゃ」
「何がでござる?」
「帳簿が、まともなのじゃ!」
甚八が首を傾げた。
「帳簿とは、まともなものでは?」
「上田には、そのまともな帳簿すらなかったのじゃ!」
旧領主が残した帳簿は、徴税のためのものばかりだった。
どの村に何人暮らしているのか、どれほどの畑があり、何を作っているのか。橋や道はどこが傷み、倉に何がどれだけ残っているのか。
その程度のことすら、六郎たちは自ら調べ直さなければならなかった。
だが、ロダン家は違う。
税、人口、収穫、倉、道、橋、商人。
領地を治めるために必要なことが、きちんと記録されている。
父を失った後も領地が大きく乱れなかった理由を、六郎はようやく理解した。
「カミーユ殿が幼くとも、この者らがおれば政は回るか」
「我らはカミーユ様をお支えするためにおります」
文官が頭を下げる。
「ありがたい」
六郎は心の底から言った。
そこへ、猿飛佐助が顔を出した。
「ご家老様、なんか機嫌いいな」
「佐助か」
「そんな嬉しそうなご家老様、初めて見たぞ」
「仕事を任せられる者がおるというのは、よいものじゃ」
「やっぱり仕事を押しつけられる相手ができたからじゃねえか」
「佐助」
「なんだ?」
「後で仕事をやる」
「なんでだよ!」
◇◇◇
その日の午後。
幸村は領主館の一室に地図を広げていた。
上田。
砥石。
そして、新たに真田へ加わった沼田。
三つの場所を結ぶ道を指でなぞっていく。
「六郎」
「は」
「この道では遅いのう」
「と申されますと?」
「沼田から上田まで荷を運ぶのに、どれほど掛かる?」
六郎がロダン家の文官へ視線を向ける。
「天候にもよります。晴れが続けば問題ございませんが、雨が降れば道がぬかるみ、倍近く掛かることもございます」
「倍か」
「狭い場所も多く、荷車同士がすれ違えぬところもございます。また、こちらの橋は傷みが激しく、大きな荷を積んだ馬車は迂回しております」
幸村は地図を見つめた。
「それでは戦にならぬな」
「戦、でございますか」
「兵だけではない。飯も運べぬ。矢も運べぬ。怪我人も運べぬ」
幸村の指が砥石で止まる。
「ここをいくら固めても、兵や兵糧を送るのに手間取っていては意味がない」
「仰せの通りにございます」
「道を直すぞ」
「どこをでございます?」
「全部じゃ」
「殿」
六郎が思わず幸村を見る。
「上田、砥石、沼田を結ぶ道を全てとなれば、相当な人足が要ります。それに、人を集めれば当然銭も……」
「人も銭も要るのだな?」
「左様にございます。それも、かなりの数と額が」
「ならば、ちょうどよい」
「……何がでございます?」
幸村が顔を上げた。
「人も銭も集める方法に、心当たりがある」
六郎は僅かに眉を寄せた。
「何をなさるおつもりで?」
「人足頭と、沼田の主だった商人を集めよ」
「両方を?」
「うむ」
幸村は笑った。
「わしから話す」
◇◇◇
翌日。
領主館の広間には、上田と沼田から集められた人足頭たちと、名のある商人たちが顔を揃えていた。
幸村は皆の前に地図を広げる。
「まずは人足頭どもじゃ」
「はい!」
「上田、砥石、沼田。この三つを結ぶ道を造り直す」
幸村は地図の街道を、いくつもの区画へ分けていった。
「お主らには、それぞれ一つずつ受け持ってもらう。人を集め、道を広げ、橋を直し、荷車が滞りなく通れる道にせよ」
一人の人足頭が尋ねた。
「期限はございますか?」
「ある」
幸村が笑った。
「他の組より早く終わらせよ」
「……は?」
「ただし、早いだけでは駄目じゃ。雑な普請をした組は最下位とする」
人足頭たちが顔を見合わせた。
「全ての普請が終わった後、六郎と甚八に出来を改めさせる。速さと出来、その両方で順位を決める」
「順位……」
「一番になった組には、褒美を出す」
何人かの人足頭が身を乗り出した。
「褒美とは?」
「畑じゃ」
「……畑?」
「一番になった組の者、全員に畑を一枚ずつ与える」
広間から音が消えた。
「…………全員?」
「全員じゃ」
次の瞬間、ざわめきが広がった。
「頭だけではないのですか!?」
「頭だけ働かせて道が出来るのか?」
「い、いえ!」
「ならば皆の働きであろう」
幸村は事もなげに続ける。
「人足頭も、大工も、石を運んだ者も、土を掘った者もじゃ。一番になった組で働いた者には、それぞれ畑を一枚与える」
人足頭たちの目の色が変わった。
銭ではない。
土地である。
今日使えばなくなる褒美ではない。自分と家族が、これから先も食っていくための畑だった。
「二番は?」
誰かが聞いた。
「もちろん褒美はある。ただし、一番には及ばぬ」
「三番は!?」
「それも出す」
「一番なら、本当に全員に畑を?」
「二度も言わせるな」
たちまち男たちが騒ぎ始めた。
「一番は俺たちが取る!」
「馬鹿言え! こっちには腕のいい大工がいる!」
「道普請なら俺たちの方が慣れてるぞ!」
「人を集めろ! 今日からでも始める!」
「まだ話は終わっておらん!」
六郎の一喝で、ようやく広間が静かになる。
壁際にいた佐助が笑った。
「こりゃ『急げ』なんて言う必要ねえな」
「うむ」
幸村も楽しそうに頷いた。
「太閤様は、人を競わせるのが実に上手かったからのう」
「太閤様のやり方でございますか」
「うむ。人は『急げ』と言われるより、『あやつに勝て』と言われた方がよう走る」
そして幸村は、人足頭たちを見渡した。
「ただし、一つだけ言っておく」
声が低くなる。
「褒美欲しさに人足を無理に働かせ、死人を出した組は失格じゃ」
先ほどまで浮き足立っていた男たちが静まった。
「道は人を生かすために造る。道を造るために人を死なせてどうする」
「はい!」
「よし。人を集めよ」
幸村が笑った。
「真田一の道を造ってみせい!」
「おおっ!」
人足頭たちの声が広間を揺らした。
そして。
幸村は商人たちへ顔を向ける。
「さて」
人足頭たちの熱気とは対照的に、商人たちの顔が強張った。
「次は、お主らじゃ」
「……はい」
「銭を貸してくれ」
「…………」
あまりにも真っ直ぐだった。
一人の商人が恐る恐る尋ねる。
「真田様。それは……どのような担保で?」
「ある」
幸村は即答した。
「お主ら、他領で商いをするには教会へ多額の寄進をせねばならぬのであったな」
商人たちの表情が変わった。
「……はい」
「店を構えるにも、倉を持つにも、教会の許しが要る」
「左様にございます」
「わしは以前から、それが気に入らん」
広間が静かになった。
「真田様。そのようなことを、あまり大きな声で申されるのは……」
「何故じゃ?」
「教会の権利にございます」
「誰が決めた?」
「それは……古くより……」
「神か?」
商人は答えに詰まった。
「商人が品を運び、店を構え、客が銭を払って買う。その間に教会が入り、多額の銭を取る理由が、わしには分からぬ」
「しかし、王国ではそれが決まりに……」
「ここは真田の地じゃ」
幸村が言い切った。
「ゆえに、壊す」
「……何を?」
「その決まりじゃ」
今度こそ商人たちは言葉を失った。
「今日より真田の地では、教会から商いの許しを得る必要はない。教会へ多額の寄進をせずとも、上田でも沼田でも店を構えてよい。倉を持ってもよい。他領から来た者であろうと構わぬ」
「殿」
六郎が口を挟む。
「なんじゃ?」
「真田への税は頂きますぞ」
「分かっておる」
「本当に?」
「……多分」
「殿!」
佐助が吹き出した。
幸村は咳払いして、商人たちへ向き直る。
「六郎と話し、誰にでも分かる額を定める。真田にそれを納め、真田の法を守る限り、好きに商え」
そして商人たちを見渡した。
「上田でも、沼田でも」
一拍置く。
「これより先、真田の地が増えたとしてもじゃ」
商人たちの目が変わった。
今度は驚きではない。
商人の目だった。
教会へ支払っていた多額の寄進がなくなる。
道まで造られる。
上田と沼田が繋がる。
そして真田の地が広がれば、自分たちが商える場所も広がっていく。
「商う場所を、真田が保証する」
幸村は商人たちを見た。
「それを担保に、わしに銭を貸せ」
沈黙の後、一人の商人が尋ねた。
「……お幾ら、お入り用でしょうか」
幸村が六郎を見る。
「六郎」
「今度は某に振ると思っておりました」
六郎は懐から帳面を取り出した。
◇◇◇
その話は、瞬く間に上田中へ広がった。
一番になった普請組には、働いた者全員へ畑が一枚与えられる。
当然、心が動く者もいる。
「なあ」
その日の訓練を終えた男が、受け取った銭を手のひらで転がした。
小助のもとで槍を習う訓練兵である。
「俺も道造りに行こうかな」
「お前もか?」
「だってよ。一番になったら畑が貰えるんだろ?」
「一枚だって話だぞ」
「こっちは槍振って一日分の銭だ。道造って銭貰って、うまくいきゃ畑まで貰えるなら、そっちの方がいいだろ」
「確かになあ」
「俺も行こうかな」
「俺も」
「お前ら」
背後から声がした。
三人が振り返る。
「うわっ!」
根津甚八が立っていた。
「じ、甚八様!」
「話は聞かせてもらった」
三人の顔が強張る。
「いや、これは、その……」
「構わんぞ」
「……へ?」
「道普請へ行きたければ行けばよい。殿は無理に兵を集めるおつもりはない」
三人が顔を見合わせる。
「よろしいので?」
「うむ。ただし」
甚八がニヤリと笑った。
「お前らは、もっと稼げるぞ」
「もっと?」
「殿が申しておった。一番槍や敵の大将を討つなど、抜群の戦働きをした者には相応の褒美を与えるとな」
「相応の褒美?」
「中でも見事な働きをした者は、真田の家臣に取り立てる」
「…………家臣?」
三人の目が丸くなる。
「ここで言うところの、騎士爵のようなものじゃな」
「俺たちが……?」
「騎士に?」
「騎士ではない」
甚八が訂正した。
「真田の家臣じゃ」
今まで彼らにとって、騎士とは自分たちとは別の世界の人間だった。
生まれた時から身分が違う。
農民がどれほど働こうとも、届く場所ではない。
そのはずだった。
「殿は、生まれがどうであろうと構わぬと申しておる。働いた者には、働いただけ報いる。それが真田じゃ」
「……」
「どうする?」
甚八が笑った。
「道を造るか?」
三人は顔を見合わせる。
やがて、道普請へ行くと言っていた男が立ち上がった。
「……槍の稽古、もう少しやって帰ります」
「俺も」
「俺も!」
「そうかそうか」
甚八は満足そうに頷いた。
そして歩き出しかけ、振り返る。
「ただし、勘違いするなよ」
三人が甚八を見る。
「褒美欲しさに勝手に飛び出す阿呆を、殿が家臣になさると思うか?」
「……あ」
「命を守り、命令を守り、その上で働きを見せろ」
「はい!」
先ほどより大きな返事が響いた。
甚八は笑いながら去っていく。
その日の訓練場では、何故か日が暮れても槍を振り続ける者が続出した。
◇◇◇
数日後。
人足頭たちは競うように人を集め、上田、砥石、沼田を結ぶ街道の至る所で、一斉に普請が始まった。
森が開かれ、道が広げられる。
ぬかるむ場所には石が敷かれ、傷んだ橋には新しい木材が運び込まれる。
一か所ではない。
いくつもの場所から同時に槌の音が響いていた。
商人から借りた銭は、人足たちの給金となった。
人足はその銭で飯を買い、布を買い、道具を買う。
物が売れれば、商人はさらに商品を運んでくる。
そして、教会へ多額の寄進をしなくても商いができると知った他領の商人まで、少しずつ上田と沼田へ姿を見せ始めていた。
そんな様子を、六郎は領主館の窓から眺めていた。
「殿」
「なんじゃ?」
「殿は、なかなかの知恵者でございますな」
「何を今さら」
「戦のことではございませぬ。政のことでございます」
「政?」
幸村は少し考えてから苦笑した。
「わしが知恵者なものか」
「しかし、此度の普請と商人の一件は見事にございます」
「昔は考える必要がなかっただけじゃ」
幸村は窓の外へ目を向けた。
「真田には親父殿がおった。兄上もおった」
六郎は黙って聞いている。
「政は親父殿や兄上が考えてくれた。わしは戦になれば槍を持ち、敵をどう討つかだけ考えておればよかった」
幸村は懐かしそうに笑った。
「楽なものであったな」
「殿が申されますか」
「今になって分かったわ。領主というものは、面倒じゃ」
「誰のせいで某が毎日その面倒に付き合っていると?」
「それは言うな」
六郎が呆れた顔をすると、幸村は再び外へ目を向けた。
「じゃが、自分で政を考えるようになってから、不思議と思い出すのじゃ」
「何をでございます?」
「太閤殿下に教えられたことをな」
六郎が目を細めた。
「人をどう動かすか。銭をどう流すか。道を造れば何が変わるか。商人を味方につければ何が出来るか」
幸村は、自分でも可笑しそうに笑った。
「昔は聞いておっても、半分も分かっておらなんだ」
「今になって分かると?」
「うむ」
そして、ぽつりと言った。
「太閤殿下は、戦だけで天下を取ったわけではなかったのだな」
六郎はしばらく幸村を見つめ、それから小さく笑った。
「やはり、知恵者ではございませぬか」
「違う違う」
幸村は手を振る。
「教わったことを、ようやく思い出しておるだけじゃ」
◇◇◇
その頃。
上田の入口に、十数人の人々が立っていた。
男、女、そして子供。
背負えるだけの荷物を背負い、一台の荷車には鍋や農具まで積まれている。
「ここが……上田か」
一人の男が、風にはためく六文銭の旗を見上げた。
男は以前、この地へ攻め込んできた王国軍の一人だった。
徴兵され、槍を持たされ、真田と戦った。
そして捕らえられた。
殺されると思った。
だが、飯を食わされ、帰れと言われ、帰り道のパンまで持たされた。
故郷へ戻った男を待っていたのは、再び兵を集めるという知らせだった。
亡くなった子爵の跡を継いだ息子が、父の仇を討つと息巻いている。
動ける男は、全て出せ。
畑を耕す者がいなくなると訴えても、聞く耳を持たないという。
男は一度、戦場から帰ってきた。
次も帰れるとは限らない。
だから家族を連れ、上田へ来た。
◇◇◇
「殿」
「なんじゃ」
「人が来ております」
「客か?」
「……住みたいそうです」
「ほう。何人じゃ?」
「十三人」
幸村は迷うことなく聞いた。
「食わせられるか?」
「十三人程度ならば」
「ならば入れよ」
「承知いたしました」
翌日。
「殿」
「なんじゃ」
「また来ました」
「何人じゃ?」
「三十二人」
「食わせられるか?」
「まだ」
「ならば入れよ」
さらに翌日。
「殿」
「またか?」
「四十七人にございます」
「増えておるな」
「増えております!」
六郎は頭を抱えた。
しかも農民だけではない。
大工がいた。
鍛冶をしたことのある者もいた。
荷馬車を扱える者。
家畜を育てていた者。
商いの経験がある者。
何度も兵として徴集された男もいる。
そこで力を発揮したのが、ロダン家の文官たちだった。
「農地を求める者はこちらへ」
「大工は普請へ回せます」
「鍛冶の経験がある者は十蔵様のところへ」
「荷馬車を扱える者は沼田との荷運びに」
人が振り分けられていく。
住む場所が決まり、仕事が決まる。
働けば銭が入る。
銭が入れば物を買う。
物が売れれば商人が来る。
商人が来れば、さらに物が増える。
上田の外へ伸びていく道から、槌の音が絶えることはなかった。
◇◇◇
ある日の夕刻。
佐助が領主館へ戻ってきた。
いつもの軽口がない。
「殿」
「どうした」
「王都が動いた」
部屋にいた六郎が顔を上げた。
佐助は地図を広げる。
「兵を集め始めてる」
「やはりか」
「いや」
佐助が首を振った。
「王都だけじゃねえ」
指が地図の北へ動く。
「ここ」
次に東。
「ここも」
さらに南。
「こっちもだ」
六郎の表情が変わった。
「……まさか」
「王国中だ」
佐助が二人を見る。
「王国中の領主に、兵を率いて王都へ集まれって命令が飛んでる」
幸村が地図を見る。
「どれほどになる?」
「まだ分からねえ」
佐助は首を振った。
「ただ……二千や三千じゃ済まねえぞ」
幸村はしばらく地図を見つめた。
その時。
外から槌の音が聞こえてきた。
道を造る音。
家を建てる音。
砥石を固める音。
そして、新しくこの地へやって来た人々の声。
王国は、兵を集めている。
真田は、人を集めている。
同じ三月。
同じ時。
されど。
その使い方は、まるで違っていた。




