備え
王城の地下。
昼であろうと日の差さぬ石造りの牢獄に、硬い靴音が響いていた。
その音に気づいた牢番が立ち上がり、歩いてくる男の姿を認めると慌てて頭を下げる。
「騎士団長様」
「先の討伐軍から戻った男爵はどこだ」
「奥にございます」
牢番に案内され、騎士団長は薄暗い通路を進んでいった。
王国騎士団長。
王国軍の頂点に立つ男であり、その待遇は伯爵と同等とされている。
もっとも、それを本当に伯爵と同じだと思っている貴族など、この国にはほとんどいない。
男は孤児だった。
幼い頃に先王に拾われ、その才を見出され、剣一本で今の地位まで上り詰めた。
ゆえに貴族たちは、陰で彼をこう呼んでいる。
成り上がり者、と。
やがて騎士団長は、一つの牢の前で足を止めた。
中にいた男が顔を上げる。
上田から唯一王都へ戻った、あの男爵だった。
鎧も剣も取り上げられ、粗末な服を着せられている。
「……騎士団長殿か」
男爵の声に敬意はほとんどなかった。それどころか、僅かな嘲りさえ混じっている。
「このような所まで何用かな。敗軍の将を笑いにでも来たか?」
騎士団長は気にする様子もなく、鉄格子の前に立った。
「聞きたいことがある」
「私の言い訳を?」
「違う」
騎士団長は男爵を真っ直ぐに見た。
「真田のことだ」
男爵の表情から、薄い笑みが消えた。
「……何を聞きたい」
「全てだ」
「全て?」
「お前たちが上田へ入ってから敗れるまで、何を見た。真田が何をした。お前たちが何をした。一つも省かず話せ」
男爵はしばらく騎士団長を見ていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……長くなるぞ」
「構わん」
男爵は壁に背を預け、ゆっくりと語り始めた。
王命を受けて集められた兵は、およそ二千五百。
対する真田は五百ほど。
数だけならば、負けるはずのない戦だった。
真田軍は王国軍を正面から待ち受けていた。騎兵はほとんど見当たらず、盾も少ない。農民と思しき兵も大勢いた。
だから誰もが思った。
容易く潰せる、と。
「ところが、奴らは崩れなかった」
男爵が言う。
「長い槍を持った兵が並んでいた。一人一人が強いわけではない。だが、同時に動くのだ」
「同時に?」
「ああ。そして……太鼓だ」
騎士団長の眉が僅かに動いた。
「太鼓?」
「真田の軍では、太鼓が鳴るたびに兵が動いた。前へ出る時も、退く時も、別の部隊が動く時もだ」
「合図か」
「分からぬ。だが……」
膝の上に置かれた男爵の手が、僅かに震えた。
「太鼓が鳴ると、何かが起きた」
騎士団長はそれを見逃さなかったが、何も言わず続きを促した。
「他には」
「妙な攻撃があった」
「妙な?」
「雷のような音だ」
男爵は耳の奥に残った音を思い出したのか、顔をしかめる。
「大きな音がした直後、兵が倒れた。子爵様も、それで……」
「魔法ではないのか」
「分からぬ。だが魔法ならば、何かが飛んでくるのが見えるはずだ。火も、風も、氷もな。あれは違った」
騎士団長は黙って考えた。
太鼓、長槍、正体の分からぬ攻撃。
だが、それだけではない。
何かが引っかかる。
「最初の戦いで、お前たちは敗れたのだな」
男爵の顔が険しくなった。
「……ああ」
「真田は追ってきたか?」
「何?」
「敗走するお前たちを追撃したかと聞いている」
男爵は記憶を辿り、やがて首を振った。
「……いや」
「何故だ」
「知らぬ。その時は、奴らにも余力がなかったのだと思った」
「その後、お前たちは軍を立て直した」
「ああ」
「真田は?」
「退いた」
「それを追ったのだな」
男爵が黙った。
騎士団長はさらに問う。
「どこまで追った」
「……山間の道だ」
「広かったか?」
その問いに、男爵の顔が変わった。
「狭かった」
「そこで真田が止まった」
「……ああ」
「先頭を長槍で押さえられた」
男爵が驚いて騎士団長を見る。
「何故分かる」
騎士団長は答えず、質問を続けた。
「後ろの兵は?」
「前へ進もうとした」
「前方で何が起きているか知らずに?」
「そうだ」
「弓兵は」
「前へ出られなかった」
「魔法兵は」
「同じだ」
「騎兵は」
男爵は答えなかった。
答える必要もなかった。
騎士団長はゆっくりと息を吐く。
「……そういうことか」
「何がだ」
「お前たちは、誘われたのだ」
男爵が目を見開いた。
「何?」
「最初の戦いで真田は勝った。だが追わなかった。そしてお前たちが態勢を立て直すと、自ら退いた」
騎士団長の目が鋭くなる。
「追わせるためだ」
「まさか……」
「五百で二千五百を相手にする必要などない」
騎士団長は静かに続けた。
「二千五百の兵がいても、狭い場所へ押し込めれば、同時に戦える数は限られる」
男爵は何も言えなかった。
あの時。
前へ行けと怒鳴る者。
下がれと叫ぶ者。
押され、転び、味方同士でぶつかる兵。
使えぬ弓。
動けぬ馬。
そして、耳に響く太鼓。
「最初から……」
男爵の声が震える。
「最初から、あそこへ我らを……?」
「恐らくな」
男爵は俯いた。
王は聞かなかった。
宰相も聞かなかった。
居並ぶ貴族たちは、自分を臆病者と笑った。
だが。
目の前の成り上がり者だけが、自分の話を聞いた。
そして、あの戦場で何が起きたのかを理解しようとしている。
しばらくして、男爵が口を開いた。
「……騎士団長様」
初めて、その呼び方が変わった。
「殿下を、上田へ向かわせるのですか」
騎士団長は答えなかった。
「私は敗れました。今さら何を申しても、言い訳としか思われぬでしょう」
男爵は鉄格子を握った。
「ですが、これだけは信じてください」
騎士団長が男爵を見る。
「兵を増やせば勝てる。そのような相手ではありません」
「……分かった」
騎士団長は踵を返した。
「話を聞けてよかった」
男爵が顔を上げる。
騎士団長はそのまま牢を離れた。
長い階段を上りながら、頭の中で男爵の話を組み立て直す。
太鼓による指揮。
長槍を揃えて使う兵。
正体不明の攻撃。
偽りの退却。
地形を使い、敵の数そのものを殺す戦い。
そして、それら全てを一つにまとめている者がいる。
真田幸村。
三万を超える軍勢を集めれば、本当に勝てるのか。
騎士団長は足を止めた。
一人の男の顔が浮かんだ。
自分がこの世で唯一、背を預けることのできる男。
武ではなく、魔法によって王国の頂点に立った男。
かつて先王と共に、滅亡寸前の王国を救った戦友。
今や賢者と呼ばれる、公爵。
あやつにも、一度話を聞かせるべきか。
そう考えながら、騎士団長は再び歩き始めた。
◇◇◇
上田。
領主館の一室には、真田の主だった者たちが集まっていた。
部屋の中央には、この地と周辺を記した地図が大きく広げられている。
「殿」
海野六郎が口を開いた。
「此度は勝ちました。されど、このままで済むとは思えませぬ」
「うむ」
幸村も同じ考えだった。
王命を受けた軍を破り、その軍を率いた貴族二人を討った。これで王国が引き下がるとは考えにくい。
「次は、此度より大きな軍勢が来ると考えるべきでしょう」
六郎は地図へ手を置いた。
「ゆえに、敵が来る前に備えを整えます」
「何をする」
「まず、上田そのものを強くいたします」
柵を増やし、堀を掘る。
土塁を築き、見張り台を置く。
兵糧を蓄える場所も増やす。
ただ領主館を固めるのではない。道も橋も村も含め、上田全体を守れるように手を入れていく。
「小助」
「はっ」
「兵の鍛錬は続けよ。されど畑を疎かにしてはならぬ」
「承知」
横で帳面を見ていた甚八も頷く。
「人を兵に取れば、その分だけ畑から人が減りますからな」
「その通りじゃ」
六郎が答えた。
「兵だけ増やしても、食わせられねば意味がない」
「戦のために民を飢えさせては、本末転倒じゃ」
幸村の言葉に六郎が頷く。
「御意」
次に六郎が口にしたのは、商いだった。
「商人を集めます」
「ほう」
「食糧、鉄、木材、革、布、薬、馬。必要な物を今のうちに集めます」
「金は足りるか?」
「今のところは」
「ならば使え」
即答だった。
六郎が僅かに笑う。
「また太閤様の教えでございますか」
「うむ」
幸村も笑った。
「銭は溜めるものではない。流すものじゃ」
必要な物を買えば商人に金が渡り、商人はまた上田へやって来る。
物が集まり、人が動く。
それもまた、戦への備えだった。
「佐助」
「おう」
「手の者をさらに広げよ。王都、周辺の領地、街道。兵の動きだけではない。食糧、馬、荷車、何がどこへ集められているのか、分かることは全て知りたい」
佐助がニヤリと笑った。
「次は、敵が来てから知るんじゃ遅いってことだな」
「そういうことじゃ」
「任せろ」
六郎は次に才蔵を見る。
「才蔵」
「なんじゃ」
「お主には道を見てもらう」
「道?」
「橋、谷、川、森もじゃ。敵が来た時、どこを落とせば進めなくなるのか。どこを塞げば荷車が通れぬのか。どこから入れば敵の背後へ回れるのか」
才蔵の口元が僅かに上がる。
「なるほど。戦が始まる前に、壊す場所を決めておけということか」
「そうじゃ」
「面白い」
佐助が横から才蔵を見る。
「壊す話になった途端、生き生きしてんな」
「黙れ、甲賀者」
「なんだと、伊賀者」
「二人とも黙れ」
六郎の一言で、二人は口を閉じた。
幸村は横を向いて笑いを堪えている。
「望月」
「はっ」
望月六郎が姿勢を正した。
「各地の傭兵ギルドを回れ。兵を集める」
「どれほど集めますか」
「集められるだけ、とは言わぬ」
海野六郎が答えようとしたところで、幸村が口を開いた。
「望月」
「はっ」
「お主が選べ」
望月が幸村を見る。
「金で動く者が悪いとは言わぬ。それが傭兵じゃ。されど、上田の民を守るため、共に戦える者がよい」
望月は少しだけ笑った。
「難しい注文にございますな」
「出来ぬか?」
「いいえ」
望月が頭を下げる。
「お任せを」
軍議はさらに続いた。
やがて六郎が、地図の端にある山地へ目を向ける。
「それと、殿」
「なんじゃ」
「上田だけでは、守り切れぬ可能性がございます」
六郎は地図の一点を指した。
「この辺りに、守りの拠点を置きたいと考えております」
幸村が身を乗り出した。
山の形。
道。
上田との位置関係。
どこかで見た。
いや。
よく知っている。
「……六郎」
「は」
「ここは、砥石に似ておらぬか」
六郎も改めて地図を覗き込む。
しばらくして頷いた。
「……確かに」
佐助が嫌そうな顔をした。
「またかよ」
幸村が笑う。
「この地では何と呼ぶのじゃ?」
六郎から現地での呼び名を聞くと、幸村はしばらく地図を眺めた。
「よし」
地図の一点を指す。
「ここを砥石と呼ぼう」
「また勝手に名前変えるのかよ!」
佐助がすぐに突っ込んだ。
「分かりやすくてよかろう」
「殿にだけな!」
「皆もすぐ慣れる」
「上田の時もそう言ってたよな!」
幸村は気にすることなく、今度は少し離れた場所へ目を向けた。
街道。
山。
川。
そして、その位置。
幸村の顔から笑みが消えた。
「……ここもか」
六郎も気づいた。
「日の本の沼田に似ておりますな」
「うむ」
佐助が額を押さえた。
「もう好きにしてくれ」
幸村は笑った。
「では、ここは沼田じゃ」
「決定なのかよ!」
部屋に笑いが起きた。
だが六郎はすぐに表情を戻す。
「砥石と沼田。この二つを押さえ、支城を置くことができれば、上田だけで敵を受ける必要がなくなります」
幸村は地図を見つめた。
上田。
砥石。
沼田。
日の本で見慣れた名が、またこの世界に並び始めている。
何故なのかは分からない。
だが今は、その答えを考えている時ではない。
「よし」
幸村が頷いた。
「やろう」
「では、そのように」
六郎は十蔵へ目を向けた。
「武具も要る」
十蔵が腕を組む。
「弾と火薬なら作れる」
「種子島は?」
「まだじゃ。されど、あと少しで形になる」
「急がせるな」
幸村が言った。
「急いで撃てぬ物を作っても仕方あるまい」
「分かっておる」
十蔵は短く答えた。
六郎が帳面へ目を落とす。
「では、これで……」
「待て」
幸村が言った。
一人だけ、まだ役目を与えられていない者がいる。
「鎌之助」
「はっ!」
由利鎌之助が勢いよく返事をした。
佐助には諜報。
才蔵には破壊工作の準備。
望月には傭兵集め。
十蔵には武具。
当然、自分にも何か大役がある。
そんな顔をしていた。
「お主には」
「はっ」
「銭を頼む」
「…………は?」
部屋が静まり返った。
「殿」
「なんじゃ」
「某だけ、子守でござるか?」
「子守ではない」
「では何を?」
「武術を教えてやってくれ」
鎌之助が瞬きをする。
幸村は少し表情を引き締めた。
「森で銭が使ったという力も気になる。捕らえた魔法兵の話では、魔法を持つ童が恐怖などで無意識に力を出すこともあるそうじゃ」
「うむ」
「されど、あの力が何なのか分からぬ以上、それだけに頼らせるわけにはいかぬ」
幸村は続けた。
「銭は人の前に立ちたがる」
鎌之助の表情が柔らかくなる。
「誰かが危ないとなれば、己のことなど考えず前へ出る。ならばせめて、己の身を守る術くらいは覚えさせてやりたい」
鎌之助はしばらく黙っていたが、やがて笑った。
「承知いたした」
拳を掌へ打ちつける。
「某の技、余すところなく叩き込んでやりまする」
「いや、余すところはあってよいぞ」
「何故でござる」
「銭はまだ童じゃ」
佐助がぼそりと言った。
「明日には泣いてそうだな、銭」
鎌之助が振り返る。
「何か申したか?」
「何も言ってねえ」
六郎が小さく息を吐き、帳面を閉じた。
「では殿、ひとまずは以上にございます」
「うむ」
幸村が皆を見渡す。
「次にどれほどの敵が来るかは分からぬ。されど、敵が来てから慌てても遅い」
地図へ目を落とした。
上田。
そして、これから砥石、沼田と呼ばれる二つの地。
「各々、頼むぞ」
「はっ!」
軍議が終わろうとした。
その時だった。
「殿、よろしいでしょうか」
部屋の外から声がした。
「なんじゃ」
「お目通りを願う者が来ております」
六郎が眉を寄せる。
「誰じゃ?」
扉の向こうから答えが返ってきた。
「カミーユと名乗る少女にございます」
「少女?」
幸村が首を傾げる。
使いの者は、一瞬言葉をためらった。
「それが……」
「申せ」
「先の戦にて、殿が討たれた男爵のご息女にございます」
部屋の空気が変わった。
幸村の表情から笑みが消える。
六郎が静かに扉を見る。
「何用で参った」
「分かりませぬ。ただ供の者を数名連れ、どうしても真田幸村様に直接お会いしたいと」
幸村はしばらく黙っていた。
父を討った男に会うため、その娘が自ら上田へやって来た。
その目的を、この時の幸村はまだ知らない。
カミーユ。
一人の少女が、上田を訪れた。




