敗報
王都。
王城の謁見の間には、重苦しい空気が満ちていた。
玉座に座る王の前で、一人の男が膝をついている。
上田へ向かった三人の貴族、そのうち唯一王都へ戻った男爵だった。
鎧は泥に汚れ、顔には疲労が色濃く残っている。それでも男爵は背筋を伸ばし、王の言葉を待っていた。
王は不機嫌そうに男爵を見下ろした。
「それで?」
低い声が広間に響く。
「上田は取り戻したのであろうな」
男爵の肩が僅かに震えた。
「……陛下」
「申せ」
男爵は一度唇を噛み、それから深く頭を下げた。
「上田の奪還には……失敗いたしました」
広間がざわめいた。
王の眉が動く。
「何?」
「我が軍は真田の軍勢と交戦し……敗北いたしました」
「敗北?」
王が玉座から身を乗り出した。
「二千五百もの兵を率いていたはずだぞ」
「はい」
「敵はいかほどであった」
男爵は答えることを躊躇った。
だが、答えぬわけにはいかない。
「およそ……五百」
その瞬間、広間の空気が変わった。
「五百?」
誰かが呟いた。
「五百だと?」
「では五倍ではないか」
「それで負けたというのか?」
居並ぶ貴族たちから、呆れとも嘲りともつかぬ声が次々と上がる。
王の顔がみるみる赤くなっていった。
「他の二人はどうした」
男爵は答えなかった。
「聞こえぬのか!」
「……子爵様は戦死されました」
ざわめきが大きくなる。
男爵は拳を握った。
「もう一人の男爵様も……戦死されました」
今度は王が黙った。
五百の賊を討つために、二千五百の兵を率いて向かった。
その結果がこれである。
二人の貴族が死に、上田は奪還できず、目の前にいる男爵だけが王都へ戻ってきた。
やがて王の口から、絞り出すような声が漏れた。
「二人とも死に、お前だけが逃げ帰ったと申すか」
「陛下、どうかお聞きください!」
男爵が顔を上げた。
「奴らは、ただの賊ではありません!」
「黙れ!」
王の怒声が広間を震わせた。
男爵が言葉を失う。
王の隣に立つ宰相が、冷たい目で男爵を見下ろした。
「五倍の兵を率いて敗れた者の言葉とは思えませんな」
「違います! 奴らは我々の知らぬ戦い方をいたします。太鼓が……長い槍が……それに子爵様は、見えぬ攻撃で……!」
「もうよい!」
王が玉座の肘掛けを叩いた。
「二千五百の兵で、五百の賊に敗れた者の言い訳など聞きとうない!」
「陛下!」
「連れて行け!」
王の命を受け、衛兵たちが男爵の両腕を掴んだ。
「お待ちください! 真田を侮ってはなりません! 奴らは……奴らは、ただの賊などでは……!」
男爵はなおも訴え続けたが、衛兵たちは構わず広間から連れ出していく。
やがて大きな扉が閉じ、その声も聞こえなくなった。
再び、静寂が訪れる。
その中で一人だけ、閉ざされた扉を見つめ続けている男がいた。
騎士団長である。
「陛下」
「なんだ」
騎士団長は王へ向き直った。
「男爵の話、最後まで聞くべきかと存じます」
王が怪訝そうに眉を寄せる。
「何故だ」
「五百の兵で二千五百を破ったのです。何か理由があるはずです」
「理由ならば明らかでしょう」
宰相が口を挟んだ。
騎士団長がそちらを見る。
「ほう?」
「指揮官が無能だった。それだけです」
周囲の貴族たちから、すぐに同意する声が上がった。
「まったくだ」
「五倍の兵があって敗れるなど、他に理由があるものか」
「王国の恥さらしだ」
騎士団長は何も言わなかった。
だが、先ほどの男爵の言葉が頭から離れない。
太鼓。
長い槍。
見えぬ攻撃。
そして何より。
――奴らは、ただの賊ではありません。
「父上」
若い声が響いた。
王が振り向く。
玉座にほど近い場所にいた一人の青年が、ゆっくりと前へ進み出た。
王太子だった。
「どうした」
「上田の件、私にお任せください」
「お前に?」
「はい」
王太子は迷いなく頷いた。
「二千五百もの兵を率いながら、僅か五百に敗れた。それは兵が足りなかったからではありません」
王太子は、先ほど男爵が連れ出された扉へ目を向ける。
そして鼻で笑った。
「率いた者が無能だっただけです」
騎士団長の眉が僅かに動いた。
「同じ二千五百であろうと、私ならば上田を落としてご覧に入れます」
王太子の顔には自信が満ちていた。
だが。
「ならぬ」
王は即座に答えた。
王太子が意外そうな顔をする。
「父上?」
「お前にとって初めての実戦となるのだぞ。何も分からぬ敵を相手に、二千五百の兵だけで向かわせるわけにはいかぬ」
「しかし、父上!」
「ならぬと言っておる」
王太子が不満そうに口を閉ざした。
王は無能と呼ばれる男ではあった。
だが、それでも父親である。
王国の跡を継ぐ一人息子を、初めての戦で失うことだけは避けたかった。
すると、宰相が静かに一歩前へ出た。
「陛下。それでは、こうなされてはいかがでしょう」
「申せ」
「殿下にとって、これが初陣となります」
宰相は王太子へ視線を向けた。
「ならばこそ、華々しいものになさればよろしいかと」
「華々しく?」
「はい。近隣の諸侯だけではなく、王国全土より兵を集めるのです」
広間がざわめいた。
「王国全土からだと?」
「左様にございます」
宰相は頷く。
「殿下を総指揮官とし、大軍をもって真田なる賊を討ち取る。王国の力と、次代を担う殿下の武威を広く示すことができましょう」
王は顎に手を当てた。
「だが、五百の賊を討つためだけに、そこまでする必要があるか?」
「無論、それだけではございません」
宰相は僅かに笑った。
「殿下が大軍を率い、真田なる賊を討ち取ったとなれば、王国の威光を内外に示すことができます」
そして声を低くした。
「帝国への良き牽制にもなりましょう」
「帝国か……」
王の目が細くなる。
王国と帝国。
互いにその存在を無視できぬ二つの国。
王太子の初陣で王国全土から集めた大軍を動かし、鮮やかな勝利を収める。
確かに、それは周辺諸国へ王国の力を見せつける絶好の機会となる。
そして、その言葉に誰より強く反応したのは王太子だった。
「なるほど!」
先ほどまで不満げだった顔が、一気に明るくなる。
「それならば上田を落とし、その勢いのまま帝国も打ち滅ぼしてしまいましょう!」
「おお!」
何人かの若い貴族から歓声が上がった。
王太子はすでに勝ったつもりだった。
まだ上田へ足を踏み入れてすらいないというのに。
ただ一人。
騎士団長だけは笑っていなかった。
王はしばらく考えていたが、やがて騎士団長へ目を向けた。
「騎士団長」
「は」
「お前が付け」
騎士団長が僅かに目を見開く。
「私が、でございますか」
「王太子を総指揮官とし、お前を副司令官とする。お前が傍におれば、わしも安心できる」
騎士団長はすぐには答えなかった。
頭に浮かぶのは、先ほど連れ出された男爵の顔だった。
五百。
二千五百。
五倍の兵力差。
それでも負けた。
何故だ。
まだ答えは分からない。
だからこそ、その答えを知らぬまま上田へ向かうことに、騎士団長は言いようのない不安を覚えていた。
「騎士団長」
再び王に呼ばれ、騎士団長は顔を上げる。
「……陛下がお命じになるのであれば」
「うむ」
王は満足そうに頷いた。
そして、玉座から立ち上がる。
その瞬間、広間から全ての囁きが消えた。
王は居並ぶ貴族たちを見渡した。
先ほどまであった迷いは、もうその顔にはない。
「よかろう!」
声が広間に響き渡る。
「王太子を総指揮官とする!」
貴族たちが一斉に頭を垂れた。
王は大きく息を吸う。
「王国全土の諸侯に命ずる!」
そして、
大号令を発した。
「兵を率い、三月以内に王都へ集結せよ!」
その日のうちに、王の命を記した文書を携えた使者たちが王都を発った。
東へ、西へ。
南へ、北へ。
王国全土へ。
ただ一つの地を討つために。
上田。
王国はまだ知らない。
その三月という時が、
真田にも与えられたということを。




