隘路
「おのれ……真田め!」
拳が机を叩き、杯が跳ねた。
昨日、上田領境で真田軍と戦った三人の貴族は、街道沿いに設けた陣で再び顔を合わせていた。
討伐軍を率いる子爵と、その命令を受けて参戦した二人の男爵。
誰もが疲れ切っている。
二千五百対五百。
五倍もの兵力差がありながら、王国軍は敗れた。
「我が兵だけでも百近く失った!」
前衛を率いていた男爵が声を荒らげる。
「側面から現れた連中さえいなければ、あのようなことにはならなかった!」
子爵も苛立ちを隠そうとはしない。
「魔術師までやられた。あの訳の分からぬ攻撃は何なのだ!」
怒号ばかりが飛び交う。
それでも王国軍には、まだ二千を超える兵が残っていた。
軍そのものが壊滅したわけではない。
後衛を率いていた男爵が、二人を見ながら口を開く。
「……一度退くべきではありませんか」
二人の視線が集まった。
「王都へ使者を送り、援軍を求めるべきです。真田は我らが考えていたような賊ではありません」
「馬鹿を申すな!」
前衛の男爵が机を叩いた。
「二千五百もの兵を率いながら、五百の賊に敗れたので援軍を寄越せと申すのか!」
「しかし!」
「もうよい」
子爵が二人を黙らせる。
「我らは陛下より上田の奪還を命じられている。そして、真田幸村なる賊を討てとな」
子爵が二人を睨む。
「このまま王都へ帰って、陛下に何と申し上げる?」
誰も答えなかった。
「まだ二千以上いるのだ。昨日は不意を突かれただけに過ぎん」
前衛の男爵が頷く。
「次は同じ手にはかかりません」
後衛の男爵だけは黙っていた。
子爵が杯を掴む。
「明日、もう一度攻める」
敗北を認めるには、彼らはまだ多くの兵を持ちすぎていた。
◇ ◇ ◇
翌朝。
「子爵様!」
兵が天幕へ駆け込んできた。
「真田軍が動きました!」
「どこへだ!」
「上田の奥へ退いております!」
「退いている?」
子爵が立ち上がる。
「はい。街道を進み、こちらから離れております!」
前衛の男爵が笑った。
「逃げたか」
「昨日はこちらも被害を受けましたが、奴らも同じだったのでしょう」
子爵の口元にも笑みが戻る。
「追うぞ」
「お待ちください」
後衛の男爵だった。
「昨日のことがあります。斥候に周囲を調べさせてからでも遅くはありません」
「斥候なら出せ」
子爵が言い放つ。
「だが軍は止めん。ここで真田を逃せば、我らは何のために来たのだ」
王国軍が再び動き始めた。
◇ ◇ ◇
真田軍は逃げていた。
少なくとも、王国軍にはそう見えた。
街道の遥か先に六文銭の旗が見え、近づけばまた遠ざかる。
「いたぞ!」
「追え!」
「今度こそ逃がすな!」
昨日の敗北を取り返そうと、王国兵たちは進んでいく。
やがて街道の両側に木々が増え、道幅も少しずつ狭くなり始めた。
「……妙な場所だ」
後衛の男爵が周囲を見る。
二千を超える王国軍は、細長い列となっていた。
前衛に男爵。
その後ろに盾兵、槍兵。
中衛には総指揮官である子爵と、その直属兵、弓兵、魔術師。
さらに後方には、もう一人の男爵が率いる部隊。
「軍列が伸びすぎています」
後衛の男爵が側近に呟く。
その時、前方から歓声が聞こえた。
「いたぞ!」
「真田だ!」
六文銭。
街道の先に、真田軍が見えた。
「追いついたぞ!」
前方の兵が速度を上げる。
そして王国軍は、さらに狭くなる道へと入っていった。
◇ ◇ ◇
先頭を進んでいた兵が、突然足を止めた。
「止まれ!」
「どうした!」
「前だ!」
道の先。
そこには逃げていたはずの真田兵が並んでいた。
長槍。
幾列もの槍先が、王国軍へ向けられている。
その中央には穴山小助。
「盾を上げろ!」
前衛の男爵が叫ぶ。
盾兵が前へ出る。
「進め!」
だが、先頭の兵たちはすぐに足を止めた。
道が狭い。
左右へ広がることができず、正面には自分たちより長い槍を持った真田兵が待っている。
「何をしている! 前へ進め!」
後ろから兵が押す。
「押すな!」
「前が止まっている!」
「進めとの命令だ!」
「進めぬのだ!」
その声は後方まで届かない。
さらに後ろでは、なぜ前進が止まったのかすら分からなかった。
「何故止まっている!」
「分からん!」
「前へ進め!」
後方から押された先頭の兵たちが、じりじりと前へ押し出される。
小助はその様子を見ていた。
後ろを振り返る。
幸村の軍扇が前へ出た。
ドドン! ドン!!
「進めぇぇぇ!!」
「応!!」
長槍が一斉に突き出された。
「ぐあっ!」
「下がれ!」
「下がれぇ!」
先頭の王国兵が後ろへ逃げようとする。
だが、下がれない。
後ろから味方が押してくる。
「押すな!」
「下がれ!」
「前へ進め!」
「無理だ!」
前は退きたい。
後ろは進みたい。
二千を超える兵が、互いの身体で互いの動きを塞ぎ始めた。
◇ ◇ ◇
「押し返せ!」
前衛の男爵が叫ぶ。
「盾兵を前へ! 槍兵はその後ろから攻撃しろ!」
だが、盾兵を増やそうにも前へ出る道がない。
「弓兵は!」
「中衛です!」
「前へ呼べ!」
伝令が後方へ向かおうとする。
だが、人で埋まった街道を進めない。
「道を空けろ!」
「どこへ退けばいいんだ!」
「負傷者を後ろへ!」
「後ろも詰まっている!」
前衛の男爵が初めて周囲を見回した。
数が多い。
だからこそ動けない。
◇ ◇ ◇
軍列の中央。
総指揮官の子爵は、馬上で苛立ちを募らせていた。
「何故止まっている!」
「前方で真田軍と接触した模様です!」
「ならば押し潰せ!」
「道が狭く、兵を前へ送れません!」
「弓兵を出せ!」
「前へ出ることができません!」
子爵の顔が赤くなる。
「魔術師を前へ!」
「同じく通れません!」
「ならばここから撃たせろ!」
魔術師の一人が青ざめる。
「この位置からでは、前方の味方を巻き込みます!」
「では騎兵を出せ!」
側近が思わず子爵を見る。
「この道では馬を走らせられません!」
「何ならできるのだ!」
子爵が怒鳴った。
馬上から前方を見るが、人、人、人。
兵の兜しか見えない。
「役立たずどもめ! 道を空けろ!」
子爵が鐙に足をかけ、馬上で身体を伸ばす。
「前へ進め! 数はこちらが圧倒しているのだぞ!」
豪華な鎧。
馬上。
周囲を固める護衛。
そして、兵たちへ命令を飛ばす男。
斜面の木々の中から、それを見ている者がいた。
筧十蔵。
種子島の銃身が、ゆっくりと動く。
「……あれじゃな」
頬を銃床へ寄せる。
「随分と分かりやすい」
子爵はまだ叫んでいる。
「前へ進め! 真田を押し潰せ!」
十蔵の指が動いた。
ドォン!!
乾いた轟音が隘路を走った。
子爵の身体が揺れる。
「……?」
そして、そのまま馬上から落ちた。
「子爵様?」
側近が固まる。
「……子爵様!」
護衛たちが駆け寄った。
「子爵様が倒れた!」
「何が起きた!?」
「どこからだ!」
「魔法か!?」
「術者を探せ!」
兵たちが斜面を見る。
だが、見つからない。
十蔵はすでに身を伏せ、次の弾を込め始めていた。
「これで少しは静かになるかの」
静かになるはずがなかった。
◇ ◇ ◇
「子爵様が倒れた!」
声が中央から広がっていく。
「総指揮官が!」
「どうする!」
「前へ進め!」
「誰の命令だ!」
「前衛からは進めと言っている!」
「中央はどうするんだ!」
命令の中心が消えた。
前衛の男爵は真田軍を押し返そうとしている。
中衛では子爵の直属兵が混乱し、後衛の男爵には何が起きたのかまだ正確には伝わっていない。
その時。
ドン。
昨日の戦いを経験した兵が顔を上げた。
ドン。
「……まずい」
隣の兵が振り向く。
「何がだ?」
ドドン。
男の顔から血の気が引いた。
「来るぞ……」
「何が来る?」
「真田だ……!」
「何を怯えている。ただの太鼓ではないか」
「違う……」
男は周囲を見回す。
前。
後ろ。
左右の斜面。
どこから来るのか分からない。
「あの太鼓が鳴った後、何が来るか分からねえんだ……!」
その直後、斜面から矢が飛んできた。
「うわっ!」
「上だ!」
石が転がり落ちる。
「盾を上げろ!」
「前が詰まっている!」
「右だ!」
「左からも来るぞ!」
致命的な攻撃ではない。
だが、密集した王国軍には十分だった。
兵が身体を捩るたびに隣とぶつかり、槍が絡み、盾が邪魔になる。
そして再び。
ドン!
「まただ!」
「今度は何が来る!?」
恐怖が、昨日戦っていない兵にまで広がり始めた。
◇ ◇ ◇
先頭では小助の長槍隊が道を塞ぎ続けていた。
ドドン! ドン!!
「進めぇ!!」
「応!!」
長槍が伸びる。
王国兵が押し戻される。
だが後ろへは下がれない。
「もう無理だ!」
「後ろへ下がれ!」
「下がれねえんだよ!」
その時、真田兵の槍が左右へ分かれた。
道の中央が開く。
「……?」
二人の巨漢が歩いてきた。
金棒を肩に担いでいる。
「兄者」
「なんじゃ」
「今日は道が狭いのう」
「うむ」
清海が王国兵を見る。
「これなら迷わず進めるぞ」
「なるほど!」
伊三が笑った。
「前にしか敵がおらぬ!」
二人が金棒を構える。
前列の王国兵の中に、昨日の戦いを生き残った者がいた。
男の顔が青ざめる。
「……オーガ」
清海の眉が動いた。
「今、なんと申した?」
「オーガだぁぁぁ!!」
「誰がオーガじゃあああ!!」
二本の金棒が振り下ろされた。
ドガァァン!!
盾兵が吹き飛び、その後ろの兵まで巻き込む。
「兄者!」
「おう!」
「やはりわしら、オーガと思われておるぞ!」
「ならば今日こそ違うと教えてやる!」
「どうやってじゃ!」
「知らん!!」
ドガァン!!
「やっぱりオーガだぁぁぁ!!」
「違うわぁぁぁ!!」
王国軍の前衛が崩れ始めた。
◇ ◇ ◇
「持ちこたえろ!」
前衛の男爵が馬上から叫ぶ。
「中央へ援軍を求めろ!」
「子爵様が倒れました!」
伝令の言葉に、男爵が振り向く。
「何だと?」
「子爵様が攻撃を受け、指揮が混乱しております!」
「馬鹿な……!」
その一瞬だった。
「男爵様!」
兵が叫ぶ。
前を見る。
赤。
朱槍を手にした幸村が、崩れ始めた盾兵の間を進んでくる。
「貴様が……!」
男爵が剣を抜く。
「真田幸村!」
「いかにも」
「よくも我らを!」
男爵が馬を進めようとする。
だが、周囲には味方の兵が密集している。
「どけ! 道を空けろ!」
ようやく馬一頭が通れるだけの隙間ができた。
男爵が剣を振り上げる。
「賊が!」
幸村が朱槍を構えた。
「参る」
男爵が剣を振り下ろす。
朱槍が走った。
一閃。
男爵の身体が馬上から崩れ落ちた。
「男爵様!」
「男爵様が!」
前衛の兵たちが動きを止める。
幸村は朱槍を払った。
「まだじゃ」
軍扇が上がる。
ドドドドドン!!
「押し返せぇぇぇ!!」
「応!!」
真田軍が前へ出た。
◇ ◇ ◇
前衛の男爵が倒れた。
総指揮官の子爵も倒れた。
その情報は、長く伸びきった軍列を断片的に後方へ伝わっていく。
「前衛の男爵様が倒れました!」
「子爵様も!」
「総指揮官が倒れた!」
「誰の命令に従えばいい!」
「退け!」
「前へ進め!」
「道を空けろ!」
軍は一つではなくなった。
前では退こうとする兵が後ろへ押し寄せ、中ほどでは子爵の護衛や直属兵が混乱し、後方では何が起きているのか分からない兵が立ち尽くしている。
その中を太鼓だけが響く。
ドン。
ドドン。
ドン。
昨日から戦っている兵たちは、そのたびに顔を強張らせた。
◇ ◇ ◇
隘路の入口に近い後方。
最後の男爵のもとへ、ようやく伝令が辿り着いた。
「男爵様!」
「何があった!」
「前衛を率いていた男爵様が倒れました!」
「何だと!?」
「それと……」
伝令が息を整える。
「子爵様も攻撃を受け、倒れられたとのことです!」
男爵の顔から血の気が引いた。
「子爵様が……?」
「はい!」
総指揮官が倒れた。
前衛の指揮官も倒れた。
それでも前方からは、兵たちの悲鳴と太鼓の音が聞こえてくる。
男爵は周囲を見た。
自分はまだ隘路の入口に近い。
後ろには道がある。
「……撤退する」
側近が振り向く。
「しかし、王命が!」
「総指揮官が倒れ、前衛の指揮官まで失ったのだぞ!」
男爵が馬首を返す。
「これ以上続ければ全軍を失う!」
「撤退だ!」
後衛が動き始めた。
だが、その命令は前方まで届かない。
◇ ◇ ◇
王国軍は崩れた。
先頭の兵は後ろへ逃げようとし、中ほどの兵は左右の斜面へ逃れようとする。
武器を捨てる者。
盾を捨てる者。
その場で降伏する者。
真田軍は、逃げる兵を無理には追わなかった。
幸村が軍扇を上げる。
太鼓が止まる。
戦場に残ったのは荒い息と呻き声、そして地面へ捨てられた無数の槍と盾だった。
清海が金棒を肩に担ぐ。
「殿!」
「なんじゃ」
「今度こそ追いますか!」
「追わぬ」
「またでございますか!」
伊三が不思議そうに首を傾げる。
「殿は逃げる敵がお好きなのですな」
「違うわ!」
鎌之助が伊三の頭を叩く。
「痛い!」
幸村が笑った。
「帰る者には、帰ってもらわねばならぬ」
六郎が隣へ来る。
「王都へ、でございますか」
「うむ」
幸村は遠ざかる王国兵を見た。
「上田で何があったのか、伝えてもらわねば困る」
六文銭の旗が、隘路を抜ける風に揺れていた。
◇ ◇ ◇
後衛の男爵は馬を走らせていた。
振り返らない。
いや、振り返ることができなかった。
二千五百。
五百。
五倍の兵を率いて上田へ来た。
総指揮官の子爵は倒れ、もう一人の男爵も失った。
そして軍は散った。
耳の奥で音がする。
ドン。
男爵が馬を急がせる。
ドン。
「……やめろ」
もう鳴っていない。
それでも聞こえる。
ドドン。
男爵は歯を食いしばった。
その日。
上田へ送られた討伐軍は、大敗した。
そして王国へ帰る者たちは、一つの音を持ち帰ることになる。
六文銭と共に。
真田の名と共に。
あの太鼓の音を。




