陣太鼓
幸村は軍扇を上げたまま、王国軍を見ていた。
真田軍が下がるたび、王国軍は前へ出る。
一歩、さらに一歩。
「押せ!」
「奴らは崩れているぞ!」
「このまま押し潰せ!」
王国兵の足取りは、先ほどまでとは違っていた。慎重に盾を並べていた兵たちが、逃げる真田兵を逃すまいと速度を上げている。
その様子を見ながら、六郎が小さく息を吐いた。
「随分と食いつきましたな」
「うむ」
幸村が笑う。
「腹を空かせておったのであろう」
「殿が餌を撒かれたのでございましょう」
「そうとも言う」
六郎は何も答えなかった。
王国軍の右翼が木々の前を通り過ぎる。
まだ幸村は動かない。
さらに前へ。
盾兵が進み、その後ろから槍兵が続く。
真田軍を押している。
王国兵の誰もが、そう信じ始めていた。
その時、幸村の目が細くなった。
上げていた軍扇を左から右へ、鋭く振る。
ドン! ドン! ドドン!!
それまでとは違う太鼓が、戦場に鳴り響いた。
◇ ◇ ◇
木々の中、その音を待っていた男がいた。
望月六郎。
周囲には、かつて日の本一の兵として戦場を渡り歩いた男たちが息を潜めている。
太鼓を聞いた望月が笑った。
「ようやくか」
刀を抜く。
「野郎ども!」
傭兵たちが一斉に顔を上げた。
「殿からの馳走じゃ! 残すなよ!」
「応!!」
男たちが一斉に木々から飛び出した。
◇ ◇ ◇
「な、何だ!?」
王国軍右翼の兵たちが、木々の中から突然現れた軍勢に振り向く。
「敵だ!」
「右だ! 右から来るぞ!」
兵たちは盾を向けようとする。
だが、盾は左手にある。
右側から迫る敵を防ぐには身体ごと向きを変えなければならず、一人なら難しいことではないが、今の彼らは肩を並べた密集陣形の中にいた。
右を向こうとした兵が隣の兵にぶつかり、槍が絡む。
「邪魔だ!」
「押すな!」
「盾を右へ!」
「無理だ! 前が!」
その混乱へ、望月隊が突っ込んだ。
「かかれぇぇぇ!!」
激突。
王国軍の右翼が大きく揺れる。
「ぐあっ!」
「右だ! 右を守れ!」
「列を崩すな!」
王国兵もすぐに反応した。後方の兵が右翼へ回り、盾兵が身体の向きを変え始める。
望月隊の突撃だけで崩れるほど、王国軍も脆くはない。
「右翼へ兵を回せ!」
貴族の一人が叫ぶ。
「奴らを押し返せ!」
兵が動き始める。
だが、その動きを幸村は見ていた。
軍扇が前へ出る。
ドドン! ドン!!
「進めぇぇぇ!!」
小助が叫ぶ。
「応!!」
正面から長槍が襲いかかった。
ガガガガン!!
「ぐっ!」
右翼へ身体を向けようとしていた兵たちが、慌てて正面へ盾を戻す。
「前だ!」
「いや、右だ!」
「盾を戻せ!」
「どっちだ!」
正面には長槍、右には望月隊。
王国軍の盾が、初めて迷った。
◇ ◇ ◇
「右翼を守れ!」
「違う! 前へ出ろ!」
「真田は退いていたのだ! ここで止まるな!」
三人の貴族から、それぞれ命令が飛ぶ。
「右翼へ二百回せ!」
「待て! 戦列が薄くなる!」
「構わん! 側面を先に潰せ!」
伝令たちが走り始め、その一人が馬を走らせた。
「右翼へ! 右翼を立て直せとのご命令だ!」
その姿を、小高い場所から眺めている男がいた。
「……忙しそうじゃな」
十蔵が種子島を構え、狙いを定める。
「では、もう少し忙しくしてやろう」
ドォン!!
伝令の乗る馬が大きく跳ねた。
「うわっ!」
伝令が地面へ投げ出される。
「まただ!」
「例の魔法だ!」
「どこから撃っている!?」
十蔵はすでに種子島を下ろしていた。
「魔法ではないのじゃがな。まあ、よいか」
そう呟きながら、次の弾を込め始めた。
◇ ◇ ◇
王国軍の前進が止まった。
右翼へ兵を回そうとすれば正面から長槍が来る。正面へ盾を戻せば、望月隊が斬り込んでくる。
「押せ!」
「右を守れ!」
「前へ出ろ!」
「下がるな!」
命令が重なり、兵たちは自分がどちらを向けばよいのか分からなくなり始めていた。
それでも、まだ崩れてはいない。
数では圧倒している。兵も残っている。
立て直す時間さえあれば、再び押し返せる。
だが、その時間を与える男ではなかった。
幸村は黙って戦場を見ている。
望月隊が右翼へ食い込み、王国軍がそこへ兵を回す。それに伴って正面の盾が薄くなり、戦列の一角に僅かな隙間が生まれた。
幸村が笑った。
「今ぞ!」
軍扇が振り下ろされる。
ドドドドドン!!
戦場を震わせる太鼓に、王国兵たちが振り向いた。
また、あの音。
「かかれぇぇぇ!!」
幸村が駆けた。
「応!!」
真田軍が一斉に動く。
◇ ◇ ◇
先頭を走る赤備え。
その横を、巨大な二人の男が駆けていた。
「兄者ぁ!」
「おう!」
清海と伊三が金棒を振り上げる。
「どぉりゃああああ!!」
ドガァン!!
盾ごと王国兵が吹き飛んだ。
「なっ!?」
「何だこいつら!?」
「オ、オーガ!?」
清海の顔が引きつった。
「誰がオーガじゃあ!!」
怒った。
「兄者! わしも言われたぞ!」
「ならば伊三! オーガでないところを見せてやれ!」
「どうやってじゃ!?」
「知らん!」
二本の金棒が再び振り下ろされる。
ドガァン!!
「やっぱりオーガだぁぁぁ!!」
「違うわぁぁぁ!!」
その横を鎌之助が駆け抜けた。
「戦の最中まで何をしておる、この木偶の坊ども!」
王国兵が槍を突き出す。
鎌之助は身体を沈めてかわし、その懐へ入り込んだ。
拳を腹へ叩き込み、続けて肘。体勢を崩した兵の足を払うと、その身体を隣の兵へぶつける。
「ぐっ!」
「なっ!?」
金色の髪が戦場を舞った。
「殿の前を塞ぐな!」
「誰も塞いでおらぬわ!」
清海が叫ぶ。
「お主らがおるだけで邪魔じゃ!」
「ひどい!」
伊三が叫ぶ。
その三人の間を、幸村が駆け抜けた。
◇ ◇ ◇
「真田幸村、参る!」
朱槍が走り、王国兵の盾を弾く。
一人、二人と敵を退けても幸村は止まらない。
「大将だ!」
「赤い鎧だ!」
「奴を討て!」
王国兵が集まってくる。
それを見た幸村が笑った。
「よいぞ、参れ!」
数人の兵が同時に襲いかかった。
幸村は槍を払い、盾を弾く。身体を入れ替えながら敵陣へ踏み込み、その後ろから真田兵が続いた。
「殿に続けぇぇぇ!!」
「応!!」
長槍が押し込まれる。
右翼からは望月隊。
正面からは幸村たち。
ついに王国軍の戦列が裂けた。
「陣形を戻せ!」
「下がるな!」
「前へ出ろ!」
だが、もう命令は届かない。
一人が後ろへ下がると、それを見た隣の兵も下がり、さらに後ろの兵まで続いていく。
「退くな!」
貴族が叫ぶ。
「まだこちらの方が多い! 戦え!」
誰も聞いていなかった。
ドン!
太鼓が鳴る。
王国兵の肩が跳ねた。
ドドン!!
「真田が来るぞ!」
誰かが叫んだ。
それが最後だった。
「退け!」
「逃げろ!」
「陣を立て直せ!」
王国軍が崩れた。
◇ ◇ ◇
「逃がすなぁ!」
清海が走り出そうとする。
「兄者! 追うぞ!」
伊三も続こうとした。
「待て」
幸村の声が飛び、二人が止まる。
「殿?」
幸村は逃げていく王国軍を見ていた。
「追うな」
「しかし、まだ敵は大勢おりますぞ!」
清海が振り返る。
「だからじゃ」
清海が首を傾げる。
伊三も同じ方向へ首を傾げた。
「……?」
鎌之助が二人の後頭部を叩いた。
「殿が追うなと申しておる!」
「痛い!」
幸村は笑った。
「逃がしてやれ」
六郎が隣へ来る。
「よろしいので?」
「うむ」
遠ざかる王国兵を見ながら、幸村が軍扇を閉じた。
「まだ終わっておらぬ」
◇ ◇ ◇
王国兵たちは走った。
誰も後ろを見ようとはしない。
やがて真田兵が追ってこないことに気づき、ようやく足を緩める者が現れた。
「……追って、こない?」
「ああ……」
「助かった……」
兵の一人が、その場へ膝をついた。
まだ大勢が残っている。戦える兵もいる。
三人の貴族も健在。
負けた。
だが、軍そのものを失ったわけではない。
それでも、誰もすぐには上田の方を見ようとはしなかった。
一人の兵が、震える手で耳を押さえる。
聞こえるはずがない。
もう太鼓は鳴っていない。
それなのに。
ドドン。
ドン。
耳の奥に、まだ残っていた。
真田の太鼓が。




