六文銭
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夜が明けた。
領都。
城門近くの兵舎では、昨夜のうちに出陣の命が下っていた。
だが。
「おい! まだ三番隊は来ぬのか!」
「半分も集まっておりません!」
「馬はどうした!」
「足りません!」
「武具庫を開けろ!」
「鍵を持っている者が見つかりません!」
怒号ばかりが飛び交い、一向に出陣する気配がない。
兵士たちの動きも鈍かった。
当然だった。
子爵のために命を懸けようという者など、ほとんどいない。
「村一つだろ?」
一人の兵士が面倒そうに剣を腰へ差した。
「盗賊どもに任せときゃよかったんだ」
「その盗賊がやられたんだろ」
「領兵もやられたらしいぞ」
「だったら余計に行きたくねぇよ」
誰かが笑った。
「どうせ子爵様は館で酒でも飲んでるんだろ」
「おい、聞かれたら首が飛ぶぞ」
「じゃあ、お前は子爵様のために死ねるのか?」
「……」
誰も答えなかった。
隊長が怒鳴る。
「口を動かす暇があるなら手を動かせ!」
「すでに千は集まっている!」
「残りが揃い次第、出陣するぞ!」
「急げ!」
返事はまばらだった。
命令だから集まった。
命令だから武器を持った。
ただ、それだけだった。
領都から少し離れた林。
木の上に、一人の男がいた。
枝葉の隙間から領都を見つめている。
やがて男は身を翻した。
枝から枝へ。
音もなく森を駆け抜ける。
しばらくして。
街道を進む幸村たちの前へ、その男が降り立った。
片膝をつく。
「佐助様」
佐助の弟子の一人だった。
「どうだった?」
「領兵は未だ領都の中。すでに千ほどが集結しております」
ヒノモト傭兵団の者たちがざわめいた。
「千……?」
男は続ける。
「さらに領都各所から兵が集まっております。されど、出陣の支度は遅れている様子」
「理由は?」
「兵どもの士気が低く、命令にもまともに従っておりませぬ」
佐助が笑った。
「なるほどね」
海野六郎が尋ねる。
「出陣まで、どれほどかかる」
「分かりませぬ。されど、すぐに動く様子ではありません」
六郎が幸村を見る。
幸村は歩みを止めなかった。
「ならば好都合じゃ」
「殿?」
「出て来ぬのであれば」
幸村が僅かに笑う。
「こちらから参ろう」
清海が豪快に笑った。
「それでこそ殿!」
「兄者、声が大きゅうござる」
「戦じゃぞ、伊三! 声くらい大きくてよかろう!」
「まだ始まっておらぬ!」
そのやり取りに、傭兵たちから小さな笑いが起きた。
だが。
やがて森を抜けた時。
その笑いは消えた。
領都。
高い石壁が、街道の先にそびえていた。
巨大な城門。
その向こうには無数の屋根が並び、さらに奥には領主の館が見える。
幸村たちは足を止めた。
ヒノモト傭兵団の一人が息を呑む。
「……あれを攻めるのか?」
別の男が呟いた。
「三十人そこそこで……?」
誰も答えない。
彼らは傭兵だ。
戦ったことはある。
魔物とも戦ってきた。
だが。
城を攻めた経験などない。
しかも。
あの壁の向こうには、すでに千の兵。
さらに増え続けている。
自分たちは三十余名。
誰かが唾を飲み込んだ。
「……本当にやるのか」
その時。
幸村が口を開いた。
「小助」
「はっ」
穴山小助が前へ出る。
幸村は領都を見たまま言った。
「あれを」
小助は一瞬、幸村を見た。
そして笑う。
「御意」
背負っていた荷を下ろした。
一本の長い旗竿。
その先には、折り畳まれた布が巻かれている。
現地の者たちが不思議そうに見つめる中。
小助は旗竿を立てた。
紐を解く。
風が吹いた。
ばさり。
布が開いた。
六つの銭。
六文銭。
異世界の空に、真田の旗が翻った。
清海が見上げる。
「……懐かしゅうございますな」
伊三が笑った。
「ようやく、戦らしくなって参りましたな」
十蔵は鉄の六角棒を肩へ担いだ。
甚八が大剣を抜く。
望月は腰に下げた魔道具の箱を一つずつ確かめる。
佐助は六文銭を見上げ、目を細めた。
「……やっぱ、これがないとね」
海野六郎は何も言わない。
ただ静かに。
六文銭へ頭を下げた。
傭兵の一人が佐助へ尋ねる。
「あれは……?」
「六文銭」
「ロクモンセン?」
「ああ」
佐助は旗を見上げた。
「真田の旗ですよ」
「真田……」
「俺たちの殿」
佐助が幸村を見る。
「真田幸村の旗です」
風が強くなった。
六文銭が大きく翻る。
その頃。
領都の城壁でも、異変に気づいた兵たちが集まり始めていた。
「おい」
「なんだ、あれ」
「武装してるぞ」
「数は?」
兵士が目を凝らす。
「……三十くらいだ」
「三十?」
「三十人で何をするつもりだ?」
別の兵が吹き出した。
「まさか、攻めてくるんじゃないだろうな」
笑いが起きた。
「三十人で?」
「こっちは千いるんだぞ!」
「まだ増えてる!」
「馬鹿じゃねぇのか!」
城壁の上に笑い声が広がった。
その眼下。
海野六郎が前へ出た。
「皆、聞け!」
声が響く。
傭兵たちが六郎を見る。
佐助の弟子たちも姿勢を正した。
「城内には、すでに千の兵がおる!」
ざわめきが起こる。
「さらに兵は集まりつつある!」
六郎は続けた。
「数だけを見れば!」
「我らに勝ち目などない!」
傭兵たちの表情が強張る。
六郎は領都を指した。
「されど!」
その声が響いた。
「我らがここへ来たのは、あの者どもと数を競うためではない!」
「皆も見たであろう!」
「奴らが治める地を!」
昨日の村。
荒れた畑。
怯える人々。
倒れた商人。
娘を連れ去ろうとした盗賊。
そして。
その光景を酒を飲みながら眺めていた領兵。
「領兵は盗賊と手を組み!」
「民から奪い!」
「女子供すら嬲る!」
六郎の声が低くなる。
「そして、それを止めるべき領主が!」
「奴らを使い、私腹を肥やしておる!」
傭兵たちの顔から迷いが消えていく。
「我らは賊にあらず!」
「金のために、あの城を攻めるのでもない!」
六郎は六文銭を指した。
「我らは今!」
「この旗の下に立つ!」
ばさり。
六文銭が風を受ける。
「千が何じゃ!」
六郎が叫ぶ。
「一万であろうと同じこと!」
「我らの前に立つならば!」
「打ち破るのみ!」
十蔵が六角棒を地面へ叩きつける。
甚八が大剣を掲げる。
清海と伊三が笑う。
佐助の弟子たちが武器を握り直した。
そして。
傭兵たちも。
「殿!」
六郎が振り返った。
幸村が前へ出る。
それだけで。
皆が静まった。
幸村は領都を見た。
千の兵。
高い城壁。
巨大な城門。
そして。
背後には六文銭。
幸村が槍を掲げる。
「これぞ!」
声が響いた。
「この地における、我が真田の初陣ぞ!」
幸村は皆を見渡した。
「皆の者!」
そして笑った。
「励め!」
「応ッ!!」
清海。
伊三。
海野六郎。
十蔵。
甚八。
望月。
小助。
佐助。
佐助の弟子たち。
そしてヒノモト傭兵団。
三十余名の声が、一つになる。
「応ォォォォォォォッ!!」
城壁の領兵たちから笑いが消えた。
「……なんだ、あいつら」
「本当に来る気か……?」
幸村が横を見る。
「清海」
「はっ!」
清海が前へ出る。
幸村は静かに命じた。
「法螺を吹け」
清海の顔に笑みが浮かんだ。
「承知!」
大きな法螺貝を取り出す。
口へ当てる。
大きく息を吸い込んだ。
そして。
ブオォォォォォォォォォン――!
低く。
太く。
大地を震わせるような音が響いた。
城壁を越え。
街を越え。
領都の奥深くまで。
その音は届いた。
*
領都の一角。
屋根の上を走っていた影が。
ぴたりと止まった。
「……」
男が顔を上げる。
ブオォォォォォォォォン――
遠くから響く法螺の音。
聞き間違えるはずがない。
幾度となく戦場で聞いた。
日の本の音。
男はゆっくりと城壁の方角を見る。
建物の隙間。
遥か向こう。
城壁の外。
風に翻る旗が見えた。
六つの銭。
男の目が見開かれる。
「……六文銭」
霧隠才蔵。
その顔から、いつもの冷静さが消えた。
「殿……」
しばらく。
ただ旗を見つめる。
やがて才蔵は目を閉じた。
僅かに。
口元が緩む。
そして。
再び目を開いた時。
そこにいたのは忍びだった。
「ならば」
才蔵の姿が低く沈む。
「拙者も参るとしよう」
次の瞬間。
その姿は屋根から消えた。
*
地下牢。
暗闇の中。
遠くから、法螺の音が届いた。
ブオォォォォォォォォン――
しばしの沈黙。
やがて。
牢の奥から、小さな声が漏れた。
「……遅いぞ、殿」
*
城外。
法螺の音が消えていく。
静寂。
六文銭だけが、風にはためいている。
城壁の上では。
もう誰も笑っていなかった。
幸村が槍を構える。
ゆっくりと。
その穂先を城門へ向ける。
そして。
振り下ろした。
「かかれぇぇぇぇぇ!!」
「応ォォォォォォォ!!」
三十余名が一斉に駆け出した。
千の兵が待つ領都へ。
六文銭を掲げて。
その日。
この世界で初めて。
真田の戦が始まった。




