第09話「柳沢美咲」
息づかいのことを、凛は誰にも言えなかった。言う相手がいなかった。
いや――一人だけ、頭をよぎった顔があった。
美波。音響工学を学んでいる、一つ下の後輩。半年前サークルの新歓で、一度だけ話した。それきりの関係。なのに別れぎわに彼女が言った言葉が、なぜかずっと消せずにいた。「先輩音のことで困ったら、いつでも連絡してください」。社交辞令だったのかもしれない。それでも凛は彼女の連絡先を、消さずに残していた。人付き合いのほとんどを、半年で手放した凛がなぜかその一件だけは。
それでもまさか。こんな馬鹿げた話を。あの明るい子に、聞かせるわけにはいかない。今はまだ。
あれから、まともに眠れていない。
目を閉じると、あの息づかいが聞こえる。電気を消すと、暗闇の奥でテープが回っている気がして、何度も飛び起きた。食欲もなかった。もともと味のしない食事が、もっと砂のようになった。大学の講義も、二日続けて休んだ。スマートフォンの通知が鳴るたびに、心臓が跳ねた。
もう、あのテープを観なければいい。捨ててしまえばいい。頭では分かっていた。なのに凛は、夜になるとまた、再生ボタンに指を伸ばしていた。怖い。怖いのに、確かめずにいられない。あの少女が、何を伝えようとしているのか。たすけて、と書いたのは、誰なのか。
三日目の夜。睡眠不足で、頭の芯が痺れていた。鏡を見ると、自分の顔が、知らない人みたいに見えた。落ちくぼんだ目。血の気のない頬。
あの少女に、少しずつ、似てきている気がした。
そこまで来て、ようやく凛は思った。このままじゃ、壊れる。一人では、もう、抱えきれない。
凛はその考えを振り払った。代わりに調べた。あの少女が誰なのか。
手がかりは少なかった。映像の隅に焼き込まれた日付、『1999 12 03』。防音室。アップライトピアノ。病んだ少女。それだけ。けれど凛はテープを何度も止め、画面を拡大した。ブラウン管に顔を近づけ、わずかに映り込んだものを拾った。
ピアノの譜面台に、楽譜が置かれていた。表紙の文字は潰れて読めない。けれどその隅に、小さく書かれた名前があった。鉛筆の子どもっぽい丸い字。
やなぎさわ みさき。
凛はその名をスマートフォンに打ち込んだ。柳沢美咲。ありふれた名前だ。同姓同名はいくらでも出てくる。けれど一九九九年、という年と組み合わせると、検索結果は急に細くなった。
古い個人サイトのアーカイブ。とうに更新の止まった、誰かの日記。その中に一行。
「柳沢さんのお嬢さん美咲ちゃん、まだ入院しているらしい。あんなに上手にピアノを弾く子だったのに」
日付は一九九九年の秋。
入院。ピアノ。柳沢美咲。点と点が線になっていく。あの少女は病気だったのだ。だからあんなに痩せていた。だからあんなに肌が白かった。
凛はさらに検索を重ねた。柳沢美咲白血病。柳沢美咲ピアノ。柳沢美咲一九九九。
画面をスクロールする指が、ある一件で止まった。
地方紙の、小さな訃報記事のアーカイブ。二〇〇〇年一月。
柳沢美咲さん(十四歳)。
凛の指が冷たくなった。
あの少女は――もう死んでいる。二十六年前に。あのテープが撮られた、ひと月ほどあとに。
助けてと少女は言った。でも助けは、間に合わなかったのだ。とっくに。
凛がそこまで読んだとき、スマートフォンのスピーカーから、ピアノの響きがひとつ鳴った。
検索結果の、柳沢美咲という文字の上で。
偶然だと、思おうとした。
スマートフォンが、通知音を鳴らしただけ。たまたま、ピアノの音に似ていただけ。そう思おうとした。でも、もう、その「思おうとする」が効かない。
響きは、もう空耳では片づけられない。耳を塞いでも消えない音。ずれていく音。再生するたび増える息づかい。そして今、検索結果の上で鳴った一音。
一回。二回。三回。
偶然は、何回まで偶然だっただろう。
四回目から、何になる。
凛はフリマアプリを開いた。marie_1985。あのテープを手放した人。あの人なら、何か知っている。少女のことを。このテープの、本当の意味を。
凛はメッセージを打った。今度はためらわなかった。
「テープの少女は、柳沢美咲さんですね。一九九九年に撮られて、その翌年に亡くなった。あなたは彼女の何なのですか。このテープは何なのですか。私の部屋で、おかしなことが起きています。音が消えないんです」
送信した。
既読はすぐについた。
凛は息を詰めて画面を見つめた。返信を待った。一分。二分。打っている気配の、点滅する印さえ出ない。
諦めかけたそのときだった。
返信が届いた。たった一行。
「ごめんなさい。もう止められない」
凛がその意味を問い返すより早く、二通目が続いた。
「次が届きます」
凛は画面を見つめたまま、動けなかった。次が届く。何が。何が届くというのか。
問い返した。「次というのは」
既読はついた。ただ返信は二度と来なかった。marie_1985のアカウントは、その日のうちに消えた。プロフィールごと、取引履歴ごと、まるで最初から存在しなかったように。
残されたのは凛の手元の、一本のテープだけ。
そして――その言葉だけが、頭の中で鳴り続けた。
次が届きます。




