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第08話「ずれる」

 目を覚ますと朝だった。味のしないいつもの朝。しかし何かが違っていた。


 凛はしばらくそれが何か分からなかった。天井のシミを見上げてぼんやりと、違和感の正体を探した。


 部屋が静かすぎる。


 いやと凛は思い直す。静かなのはいつものことだ。問題は静けさの種類だった。冷蔵庫の唸りが聞こえない。上の階の足音が聞こえない。窓を揺らす風の音が聞こえない。


 あの防音室の、無響の静けさが――この部屋にまで、居座ってしまったかのようだった。


 それだけではなかった。


 起き上がろうとして、凛は軽いめまいを覚えた。頭の奥が鈍く重い。風邪のひきはじめのような、微熱の気配。だが額に手を当てても、熱はない。体の表面ではなくもっと内側――骨の、芯のあたりが、ずっと低く震えているような感覚。ゆうべからいやこのテープが来てから、ずっと眠りが浅かった。夜中に何度も目を覚まし、聞こえるはずのない音に、耳を澄ませていた。寝不足が澱のように、体の底に溜まっていた。


 凛は起き上がった。台所へ行き、水を飲もうとコップを手に取った。蛇口をひねる。水が流れた。


 けれど――水の音が、わずかに遅れていた。


 蛇口から水が出る。それを目で見る。そのコンマ数秒あとに、ザーッという水音が追いかけて聞こえる。映像と音がずれている。自分の世界の音声が少しだけ、遅れて再生されている。世界の映像と音声を別々の編集者が担当していて、そのうちの一人がほんの一拍、遅れて納品しているのだ。そんなありえない想像が、頭を離れなかった。


 凛はコップを置いた。自分の足音で確かめた。一歩踏み出す。足が床につく。そのわずかあとにコツという足音が、遅れて返ってきた。


 気を紛らわせようと、凛はスマートフォンを開いた。いつも見ている動画アプリ。画面の中で見慣れた配信者が、楽しげに身振り手振りで喋っている。しかし――おかしい。その人が口を閉じた、一拍あとに声が遅れて、スピーカーから流れ出る。


 別の動画に変えても同じだった。通信の遅延ではない。イヤホンを外しても変わらない。それどころか、画面をタップするあの「カチ」というシステム音さえも。指が画面から離れたコンマ数秒あとに、背後から追いかけてくる。


 世界という巨大なアプリの、音声トラックだけが。後ろへ後ろへとずれていく。


 凛はスマートフォンを伏せた。逃げ場はもう手のひらの中にも、なかった。


 もう一歩。同じだった。視覚と聴覚がほどけている。世界の音が世界の動きから、剥がれかけている。


 医者が言っていた感覚の鈍麻。あれとは違う。あれは音が遠ざかることだった。これは――音がずれること。世界が、わずかに編集を誤った映像のように、音声トラックだけが後ろにずれていく。


 凛は自分の手を見た。指を鳴らしてみる。パチンと鳴る。その音が遅れて届く。


 洗面所へ行った。鏡を覗き込む。確かめずにはいられなかった。


 鏡のなかの自分に向かって、声を出してみる。「あ」。鏡のなかの唇が「あ」の形に動く。ただその口が閉じたあとに、「あ」という自分の声が、遅れて耳に届いた。口はもう止まっているのに。声だけが追いかけてくる。


 もう一度。「わたしは佐々木凛」。鏡のなかの凛が先に喋り終える。声はワンテンポ遅れて、空っぽの口から響いてくる。まるで鏡のなかの自分と、声を出している自分が、別々の存在になってしまったように。どちらが本物なのか、わからなくなる。


 凛は鏡から目を逸らした。これ以上見ていたら、鏡のなかの自分が自分の知らないことを、喋りだしそうな気がした。


 喉の奥がひくりと鳴った。胃のあたりが、すっと冷えて沈んでいく。半年間何を食べても味がせず、誰の声も遠かったあの鈍った体が。今だけ恐怖にだけ、生々しく反応していた。鈍麻していたはずの皮膚が粟立ち、心臓がいやに速く打っている。


 怖いと思った。半年ぶりにこれは自分の感情だと、はっきり分かる怖さだった。


 ふと最悪の想像がよぎった。もし声まで遅れて聞こえたら。叫んだその一拍あと自分の悲鳴が、背後から追いかけてきたら。凛は口を固く結んだ。声だけは出すまいと思った。


 *


 逃げるように、凛は大学へ向かった。家にいるのが怖かった。人のいる場所へ行けばこのおかしな現象も、おさまるかもしれない。そう思った。


 けれど違った。


 講義室。教授が黒板に、チョークを走らせる。カツカツという乾いた音。それが教授の手の動きから、わずかに遅れて響いてくる。手はもう次の文字を書いているのに、音は、ひとつ前の文字をなぞっている。


 凛は息を詰めた。周りを見た。百人近い学生がいる。誰も気づいていない。ノートを取る者。スマホをいじる者。船を漕ぐ者。みんな、当たり前の世界の中にいる。凛だけが世界のわずかなバグの中にひとり、取り残されている。


 隣の席の学生がペンを落とした。床に当たる。その光景が見えたコンマ数秒あと、忘れた頃にカラン、という音が遅れて届いた。学生は何事もなくペンを拾った。ずれに気づいてすらいない。


 凛は両手で耳を塞ぎたくなった。ただ塞いでも無駄だと、わかっていた。これは耳の問題ではない。世界の問題なのだ。あるいは――自分が、世界からずれはじめている。


 家でも。外でも。どこにいても音はずれてくる。


 逃げ場はどこにもなかった。


 その日の午後凛はもう一度、テープを観ようとした。なぜそんなことをしたのか、自分でも分からなかった。怖かった。怖いのに、確かめずにはいられなかった。あの少女が、最後に何を言いかけたのか。たすけての続きを。


 コンセントを挿し直し、テレビデオの電源を入れる。テープは、自動で巻き戻されていた。再生ボタンを押す。


 砂嵐。無響。防音室。少女。ゆうべと同じ映像。


 しかし凛はすぐに気づいた。ゆうべと違う。


 映像は同じだった。少女がピアノを弾く、音のない映像。けれどその「音のなさ」の中に――何かがいた。


 無響の静けさの底に、かすかな息づかいが混じっていた。


 ゆうべはなかった音だ。凛は確信があった。ゆうべこの映像から聞こえたのは、完全な無音だった。なのに今その無音の底で、誰かが息をしている。


 少女の息ではない。少女は、ピアノを弾いているだけだ。これは――もっと近くで、息をしている誰かの。


 まるで画面のこちら側から、凛のすぐ隣で誰かがこの映像を、一緒に観ているような。


 凛はゆっくりと横を見た。


 誰もいなかった。


 けれど息づかいは、確かにすぐそこにあった。

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