第07話「残響」
凛は振り返った。誰もいない。いつもの部屋。散らかった机。たたんでいない洗濯物。何もない。誰もいない。
画面に向き直る。少女はまだ弾いている。音もなく。
凛の心臓が速くなっていた。空耳だ。さっきからずっと空耳ばかりだ。テープのせいで、神経が過敏になっている。それだけのことだ。
画面の中で、少女がふいに弾く手を止めた。顔を上げた。カメラを見た。
凛は息を呑んだ。
少女の視線が画面をブラウン管のガラスを、二十六年という歳月をまっすぐに貫いて、凛の目に届いた。落ちくぼんだ眼窩の奥の、燐光のような目が凛だけを見ていた。観ている誰かではなく凛を。
逃げろと頭の芯が叫んでいた。なのに体が動かない。リモコンを探そうとした手が、自分のものでないように、こわばっている。喉がひゅっと鳴った。視線を逸らすことすら、できなかった。見てはいけないものに、目を縫いつけられていた。
少女の唇が動いた。音のない言葉。
凛は画面に顔を近づけた。読み取ろうとした。何を言っているのか。唇の動きがゆっくりと、形をつくる。
た――す――け――
そこで画面が暗転した。
ブツッという音とともに、映像が途切れた。テープが終わったのだ。画面が再び砂嵐に戻り、ザーッというノイズが部屋に満ちる。
凛はリモコンを探して、電源を切った。ブラウン管が「キーン」と高い音を残して暗くなる。
静寂が戻った。普通の静寂。冷蔵庫の唸りと上の階の足音のある、いつもの部屋の静けさ。
凛は長く息を吐いた。観てしまった。何を観たのかはよく分からない。けれど観てしまった。胸の奥が嫌な動悸を続けている。
あの子は最後に何と言ったのか。たすけて。きっとそう言った。助けてと。
でも誰に。二十六年前の少女が今、これを観ている凛に、助けを求めるはずがない。これはただの記録だ。とっくに終わった誰かの過去だ。
立ち上がろうとして――凛は動きを止めた。
聞こえる。ピアノの響きが。あの低く重い響きが。さっき背後で聞こえたのと、同じ音が。
テレビは消えている。スピーカーは沈黙している。
なのに部屋のどこかでその響きだけが、まだ――鳴り続けていた。
残響は消えなかった。
鳴り終えた音が空気の中に居座って、いつまでも引かない。凛は部屋の中を探した。スマートフォンを確かめた。何も再生していない。テレビの電源コードを、コンセントから抜いた。それでもその響きは鳴り続けた。低くかすかにけれど確かに。部屋の空気そのものが、その音を覚えてしまったみたいに。
耳を塞いだ。
聞こえた。
手のひらで両耳を強く押さえても、その響きは消えなかった。外から来る音なら、耳を塞げば小さくなるはずだった。なのにそれは、頭の内側で鳴っているようだった。骨を伝って直接、届いているようだった。耳を塞いだことで、むしろその音の底にあるものが際立った。旋律ですらない低い唸りのような震えが、頭蓋の奥に居座っていた。
凛は耳から手を離した。心臓が暴れていた。
落ち着けと自分に言い聞かせる。耳鳴りだ。きっとただの耳鳴り。疲れて神経が高ぶってそれで耳が、ありもしない音を作っている。よくあることだ。よくある――
その言葉がまた効かなかった。
どれくらいそうしていただろう。気づくと残響は消えていた。いつ消えたのか分からなかった。鳴り続けていたものがある瞬間、ふっと無くなっていた。後に残ったのはいつもの部屋の、いつもの静けさ。冷蔵庫の唸り。上の階の足音。窓を揺らす夜の風。
凛は床にへたり込んでいた。膝が、冷たいフローリングの感触を伝えてくる。それは感じた。温度はちゃんと感じる。半年間薄れ続けていた感覚の中で、その冷たさだけが、やけに鮮明だった。
恐怖が感覚を研ぎ澄ましていた。
ふと子どもの頃のことを思い出した。凛は昔から音に、敏感すぎる子だった。教室のざわめきが、人より大きく聞こえて耳を塞いだ。誰も気にしない冷蔵庫の唸りや蛍光灯の音が、頭の芯に響いて、眠れなかった。母はそれを聞くたび、なぜかひどく不安そうな顔をした。「あなたは聞きすぎるのよ」と叱るような怯えるような声で。あのときの母の表情の意味が、凛にはずっと分からなかった。
その夜、凛はなかなか寝つけなかった。ようやくまどろんだのは、空が白みはじめる頃だった。浅い眠りの中で凛は夢を見た。
防音室にいる夢だった。灰色の吸音楔に囲まれて、凛はピアノの前に座っている。指を置く。弾こうとする。けれど音が出ない。どれだけ強く鍵盤を叩いても、無響の部屋が音を、生まれる前に殺してしまう。
背後に誰かがいる。振り返れない。振り返ってはいけない、と分かっている。
その誰かが凛の耳元で囁いた。
「いっしょに記録されようね」




