表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
5/19

第05話「marie_1985」

 購入を確定したあの夜から、部屋の空気が変わった。


 気のせいだと凛はすぐに思った。けれど確かに何かが変わった。室温が、わずかに下がった気がした。エアコンのタイマーで暖房は入っているはずなのに、肌がうっすらと粟立つ。買い物かごに何かを入れたのではなく、この部屋に何かを招き入れてしまったような――そんな感覚だった。


 到着予定は十一月三十日。注文の翌々日。あと二日。それまでの時間が、やけに長く感じられた。


 凛は購入履歴を開いて、出品者の名をもう一度見た。marie_1985。マリーあるいはマリエ。一九八五という数字は、生まれ年だろうか。だとすれば四十歳前後。


 プロフィールには、ほかに出品中の商品はなかった。評価もない。取引実績ゼロ。このアカウントは、このテープを手放すためだけに作られたように見えた。


 凛はためらいながらメッセージを送った。「商品を購入させていただきました。これはどういうテープなのでしょうか。『呪い』というのは……」


 既読はつかなかった。十分待った。つかない。諦めて眠ろうとしたとき、通知が震えた。marie_1985からの返信。たった二行だった。


 「再生環境には、くれぐれもご注意を。」  「音を大きくしすぎないように。」


 凛はその二行を見つめた。どういう意味だろう。観るときの注意ではなく、聴くときの注意。映像ではなく音について。


 返信しようと文字を打った。「音というのは」――打ちかけて指が止まる。


 部屋のどこかで、またピアノの響きがひとつ。短く、確かに鳴った。ゆうべと同じ音だった。


 凛は息を止めた。テレビは点いていない。スマートフォンからでもない。動画も音楽も再生していない。


 空耳だ。疲れているのだ。そう自分に言い聞かせて、凛はメッセージを消した。打ちかけた文字を全部消した。


 なぜか訊いてはいけない気が、した。


 *


 問題は、すぐに現実的な形でやってきた。再生する機械がない。


 凛の部屋には、VHSデッキもブラウン管テレビもない。今どきの薄型テレビにVHSは挿せない。当たり前のことに、注文してから気づいた。


 誰かに借りるという選択肢を、凛は一度だけ考えた。LINEの連絡先をスクロールする。同じ学科の人たち。サークルの名前だけ知っている人たち。誰の顔も、はっきりとは思い出せない。「VHSデッキ、貸してもらえませんか」――そんなメッセージを、この中の誰に送れるだろう。送った瞬間に、変な人だと思われる。そもそも返ってくる気がしない。


 頼れる相手の名前が、一人も浮かばなかった。その事実を、凛は静かに受け止めた。悲しいとも思わなかった。それもまた、いつものことだったから。


 結局、凛は自分の足で探すことにした。大学からの帰り道、いつもは通らない裏通りに、古いリサイクルショップがある。狭い間口に、埃をかぶった家電が積み上がった店。扉を押すと錆びたベルが鳴った。


 奥から出てきた老店主に、凛はおずおずと尋ねた。VHSが観られる機械を探している、と。店主はしばらく凛を見て、それから店の奥を指さした。古いブラウン管テレビと一体になったデッキが、一台だけあった。「テレビデオ」というのだと店主は言った。これ一台で観られる。


 値段を聞いて買う、と凛は即決した。


 店主が伝票を書きながら、ふと手を止めた。


 「あんた何か、テープでも手に入れたのかい」


 凛は驚いて店主を見た。なぜ分かるのだろう。


 店主は伝票に視線を落としたまま、独り言のように言った。


 「これね……前の持ち主が、返しに来たやつでね」


 そこで一度、言葉を切った。


 「返しに来て、それきり――姿を見てないんだ。あの子も」


 ペン先が、伝票の上で止まったまま、動かなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ