第05話「marie_1985」
購入を確定したあの夜から、部屋の空気が変わった。
気のせいだと凛はすぐに思った。けれど確かに何かが変わった。室温が、わずかに下がった気がした。エアコンのタイマーで暖房は入っているはずなのに、肌がうっすらと粟立つ。買い物かごに何かを入れたのではなく、この部屋に何かを招き入れてしまったような――そんな感覚だった。
到着予定は十一月三十日。注文の翌々日。あと二日。それまでの時間が、やけに長く感じられた。
凛は購入履歴を開いて、出品者の名をもう一度見た。marie_1985。マリーあるいはマリエ。一九八五という数字は、生まれ年だろうか。だとすれば四十歳前後。
プロフィールには、ほかに出品中の商品はなかった。評価もない。取引実績ゼロ。このアカウントは、このテープを手放すためだけに作られたように見えた。
凛はためらいながらメッセージを送った。「商品を購入させていただきました。これはどういうテープなのでしょうか。『呪い』というのは……」
既読はつかなかった。十分待った。つかない。諦めて眠ろうとしたとき、通知が震えた。marie_1985からの返信。たった二行だった。
「再生環境には、くれぐれもご注意を。」 「音を大きくしすぎないように。」
凛はその二行を見つめた。どういう意味だろう。観るときの注意ではなく、聴くときの注意。映像ではなく音について。
返信しようと文字を打った。「音というのは」――打ちかけて指が止まる。
部屋のどこかで、またピアノの響きがひとつ。短く、確かに鳴った。ゆうべと同じ音だった。
凛は息を止めた。テレビは点いていない。スマートフォンからでもない。動画も音楽も再生していない。
空耳だ。疲れているのだ。そう自分に言い聞かせて、凛はメッセージを消した。打ちかけた文字を全部消した。
なぜか訊いてはいけない気が、した。
*
問題は、すぐに現実的な形でやってきた。再生する機械がない。
凛の部屋には、VHSデッキもブラウン管テレビもない。今どきの薄型テレビにVHSは挿せない。当たり前のことに、注文してから気づいた。
誰かに借りるという選択肢を、凛は一度だけ考えた。LINEの連絡先をスクロールする。同じ学科の人たち。サークルの名前だけ知っている人たち。誰の顔も、はっきりとは思い出せない。「VHSデッキ、貸してもらえませんか」――そんなメッセージを、この中の誰に送れるだろう。送った瞬間に、変な人だと思われる。そもそも返ってくる気がしない。
頼れる相手の名前が、一人も浮かばなかった。その事実を、凛は静かに受け止めた。悲しいとも思わなかった。それもまた、いつものことだったから。
結局、凛は自分の足で探すことにした。大学からの帰り道、いつもは通らない裏通りに、古いリサイクルショップがある。狭い間口に、埃をかぶった家電が積み上がった店。扉を押すと錆びたベルが鳴った。
奥から出てきた老店主に、凛はおずおずと尋ねた。VHSが観られる機械を探している、と。店主はしばらく凛を見て、それから店の奥を指さした。古いブラウン管テレビと一体になったデッキが、一台だけあった。「テレビデオ」というのだと店主は言った。これ一台で観られる。
値段を聞いて買う、と凛は即決した。
店主が伝票を書きながら、ふと手を止めた。
「あんた何か、テープでも手に入れたのかい」
凛は驚いて店主を見た。なぜ分かるのだろう。
店主は伝票に視線を落としたまま、独り言のように言った。
「これね……前の持ち主が、返しに来たやつでね」
そこで一度、言葉を切った。
「返しに来て、それきり――姿を見てないんだ。あの子も」
ペン先が、伝票の上で止まったまま、動かなかった。




