第04話「美月のいた夏」
その夜凛は久しぶりに、美月の夢を見た。
夢の中は夏だった。一年生の夏。凛と美月は海にいた。
美月が行こうと言い出したのだ。期末試験が終わったその日に。「打ち上げだよ打ち上げ。海行こう海」と凛の腕をぐいぐい引いて。凛は人混みも日差しも、得意ではなかった。それでも美月に引かれると、なぜか断れなかった。美月の隣にいると世界が少しだけ、明るい音で満ちた。
砂浜で美月はずっと喋っていた。来年の旅行のこと。好きな人のこと。将来二人で住もうという、たわいもない約束。凛は相槌を打つだけだった。それでも美月は満足そうだった。凛が黙っていても、美月は二人ぶん笑ってくれた。
美月はよく笑う子だった。笑うとき少しだけ、鼻に皺を寄せる癖があった。そして凛の名を呼ぶとき、いつも二回続けて呼んだ。「凛、凛、見てあれ」「凛、凛、お腹すかない?」。一回でいいのに、と凛は思っていたけれどその二回呼ぶ声が、凛は嫌いではなかった。世界で自分の名をそんなふうに、弾むように呼んでくれるのは、美月だけだった。
波の音が寄せては返していた。その音に美月の笑い声が混ざる。打ち寄せる波と引いていく波。そのあいだに美月の「凛、凛」が何度も響いた。凛は目を細めて、その音を聞いていた。このまま時間が、止まればいいのにと柄にもなく、思ったのを覚えている。
帰りぎわ、美月がスマートフォンを構えた。「写真撮ろう」
凛は顔を背けた。写真は苦手だった。自分の写った写真を見るのが、好きではなかった。「いいよ私は」と断った。
でも美月は引かなかった。「だめ。撮るの」と凛の肩を抱き寄せて、強引にレンズを向けた。「いい? 笑ってよ凛」
「なんで」
「なんでって」美月は当たり前のように言った。「いつか思い出になるんだから」
いつか思い出になる。
そのときは、何気なく聞き流した言葉だった。けれど今になって思う。美月は知っていたのだろうか。自分たちの時間に、終わりが来ることを。だからこんなに、残そうとしたのだろうか。写真に。思い出に。――いや。そんなはずはない。美月はただいつも今を、めいっぱい生きていただけだ。先のことなんて考えずに。撮られた写真の中で凛は半分だけ、ぎこちなく笑っていた。美月は満面の笑みだった。
その半年後に美月が死ぬとは。
*
目を覚ますと頬が濡れていた。
夢を見たことは覚えている。だがもう内容は、薄れかけていた。美月の声がどんなだったか。あの夏の波の音が、どんなだったか。思い出そうとすると、すり抜けていく。半年でもうこんなにも遠い。
凛は起き上がりスマートフォンの、写真フォルダを開いた。
あの夏の写真。半分だけ笑った凛と満面の美月。それはまだそこにあった。凛が忘れかけても、写真は覚えていた。あの日の二人を。あの日の光を。
凛はしばらくその一枚を、見つめていた。
美月の声はもう思い出せない。けれどこの写真があるかぎり、美月が確かにいたことだけは、忘れずにいられる。記録は覚えている。記憶が薄れても。
凛は写真の中の半分だけ笑った自分を、指でそっとなぞった。あのときもっと、ちゃんと笑っておけばよかった。そんな後悔ばかりが、いつもあとから追いかけてくる。
画面を消した。部屋がまた暗くなる。
その暗がりのなかで、凛はもう一度、夢の余韻をたぐり寄せようとした。あの波の音。寄せて、返して、そのあいだに響いた美月の「凛、凛」。二回呼ぶ、あの声。
――凛、凛。
ふいに、それが聞こえた気がした。
夢の続きのように。けれど夢のなかではなかった。凛はもう、目を覚ましている。暗い部屋の、たしかにこの空気のなかで。波の音にまぎれて、誰かが自分の名を、二回。
凛は息を止めた。
もう一度、耳を澄ます。
聞こえたのは、波ではなかった。冷蔵庫の低い唸り。それだけ。さっきのは、夢の名残だ。美月の声が聞きたくて、それで耳が、ありもしない呼び声を拾っただけ。
そう思おうとした、その暗がりの底で。
ピアノの音が、ひとつ鳴った。
低く、重く。波の音にも、美月の声にも似ていない、知らない音だった。
空耳だ、と凛は思った。思おうとした。




