第03話「届きますように」
その夜眠れなかった。
薄い天井の向こうで、上の階の住人が歩く足音がする。給湯器がときどき低く唸る。冷蔵庫のコンプレッサーが回って、止まる。普段なら気にも留めない生活音が、その夜はやけに粒立って聞こえた。世界が静かすぎると人はかえって、小さな音を拾ってしまう。静寂は無ではない。静寂は隠れていた音をひとつひとつ、表に引きずり出してくる。
凛はスマートフォンを点けた。
眠れない夜の癖で、フリマアプリを開く。買うあてもないのに、知らない誰かが手放した物を眺めていると、少しだけ気が紛れる。誰かの生活の切れ端。手放された物には手放した人の気配が、わずかに残っている。その気配を覗き見ることが、凛にとっては世界と細い糸でつながる、数少ない方法のひとつだった。
古いカメラ。壊れた腕時計。読み終わった文庫本の束。
スクロールする指が、ふと止まった。
一枚の写真。黒いプラスチックの直方体が、白い背景の上に、ぽつんと置かれている。側面に手書きのラベル。かすれた文字でこう書いてある。
『記録されたビデオテープ』
その下にもう一行。赤いマジックで強く、押しつけるように。
『呪い』
価格五百円。出品者marie_1985。
商品説明の欄は、たった一文だった。
「これを再生できる人のところへ、届きますように」
凛はその一文を二度読んだ。
売りたいのか託したいのか、分からない文章だった。値段がついているのに、商品ではないみたいな。五百円という金額も、利益のためではなく、ただ「無料では受け取ってもらえないから」付けた数字のように見えた。誰かの手に渡ること。再生されること。それだけを願っている文章だった。
VHSテープ、と説明には書いてある。凛が生まれたのは二〇〇四年。物心ついたときには、もうDVDが当たり前だった。VHSなんて、実物を手に取ったことすらない。再生する機械も持っていない。買っても観られない。
観られないのに。
指が勝手に動いていた。
馬鹿げている。ただの古いテープだ。誰かの不用品だ。「呪い」なんて、買い手の興味を引くための、ありふれた煽り文句に決まっている。
そう思いながら凛の親指は、もう「購入する」のボタンの上にあった。ためらいは一秒もなかった。
半年ぶりに、凛は自分から何かに手を伸ばしていた。世界の薄い膜を自分の意志で、内側から押した。それがどんなに小さな馬鹿げた行為でも――誰かの「届きますように」に応えてしまいたかった。
その言葉に応えられる人間が、この世界に、まだ一人くらいいてもいい。
凛はボタンを押した。
購入完了の画面が表示された。同時に出品者からの、自動ではないメッセージがすぐに届いた。眠れない夜のこんな時間に。まるでずっとこの瞬間を、待っていたかのように。
「ありがとう。やっと受け取ってくれる人が、見つかりました」
凛が返信を打とうとすると、続けてもう一通。
「先に謝らせてください。ごめんなさい。そして――どうか最後まで、聞かないで」
聞かないで。観ないでではなく。
その言い回しに凛はかすかな、違和感を覚えた。ただその違和感の正体を、確かめる前に画面の表示が変わった。marie_1985のアカウントが、削除されました――そう、表示されていた。たった今やりとりしたばかりの相手が、取引を終えた瞬間に、世界から消えた。
残されたのは発送通知だけ。発送元の住所は空欄だった。
凛はしばらく暗い画面を、見つめていた。胸の奥で何かがざわついていた。買ってはいけないものを、買ってしまったのかもしれない。しかしその不安さえ半年ぶりに感じる、生々しい感情だった。鈍った心がかすかに、警鐘を鳴らしている。その響きが不思議と、嫌ではなかった。
スマートフォンを伏せようとして、凛は手を止めた。
画面を消す。指が、つるりとした表面から離れる。
その、ほんのわずかあとに。
「カチ」と、画面を消したときの音が、遅れて鳴った。
指はもう離れているのに。音だけが、半拍おくれて、追いかけてきた。
凛は自分の手を見た。古いスマートフォンだ。それくらいの遅れはあるだろう。そう思おうとした。
部屋の隅で、冷蔵庫が低く唸っていた。その唸りが、今朝より少しだけ低い気がした。気のせいだ。凛はスマートフォンを伏せ、目を閉じた。




