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第02話「鉛色の朝」

 佐々木凛が目を覚ましたとき、部屋は鉛色の光で満ちていた。


 十一月末の朝だった。カーテンの隙間から差し込む光に、色がない。曇天が東京の空を低く塞いで、すべてを灰色に均している。窓の外、向かいのマンションの壁も、その鈍い灰色を映して、濡れた鉛板みたいに、のっぺりと光っていた。洗いすぎた写真のような朝だった。凛はしばらく、天井のシミを見上げていた。コンタクトを入れていない裸眼では、それはただの白いにじみでしかない。輪郭のない、何でもない、染み。


 味のしない朝がまた来た。


 半年前からそうだ。トーストを焼いた。バターの匂いがしない。齧る。小麦の味も、焦げの香ばしさも来ない。乾いた何かが、口のなかで崩れていくだけ。なのに淹れたコーヒーをひとくち含むと、熱さだけは、はっきりと感じた。味はない。熱だけがある。栄養を体に入れる作業。所要時間十二分。


 美月が死んでから、ずっとこうだった。最初に食べ物の味が遠のいた。次に匂い。雨も、コーヒーも、自分の部屋の匂いも。そして音。人の声が、一枚布を隔てて届く。テレビも街の喧騒も、薄い膜の向こうにある。


 医者は「心因性のものでしょう」と言った。ストレス、喪失、感覚の鈍麻、よくあることですと。


 よくあること。


 その言葉が、いちばん効かなかった。美月の死が「よくあること」で片づけられるなら、この半年の自分の薄さも、誰にとっても取るに足らないものなのだろう。そう思うと、訴える言葉が喉の奥で溶けて消えた。


 起き上がる。掛け布団がずるりと床に落ちた。スマートフォンを握ったまま眠っていたらしい。画面を点けた。通知ゼロ。LINEもメールも、誰からも何もない。いつものことだ。


 大学へ行く準備をしながら、凛はふと、今朝まだ一度も声を出していないことに気づいた。おはようを言う相手がいない。いってきますを言う相手もいない。話す相手がいないから、声を出す理由がない。


 大学に着いてもそれは、変わらなかった。


 昼学食の隅の席。凛はひとりで味のしない定食を、口に運んでいた。周りではいくつもの会話が泡のように、立ちのぼっては消えていく。笑い声。スプーンが皿を叩く音。来週の予定を相談する声。それらは確かに耳に届いていた。届いていたが、凛のところまでは来なかった。すべてが水の中にいるように、くぐもって聞こえる。透明な膜の向こうの賑わいを、眺めているようだった。


 ふと視線を上げると、斜め向かいの席が空いていた。


 いつも美月が座っていた席だった。


 もう半年も前から空いているその席を、凛はまだ無意識に、目で探してしまう。そこに美月がいて「凛、なに暗い顔してんの」と笑いかけてくる気が、今でもする。


 美月がいた頃は違った。美月は凛の手を引いて、いくつもの輪の中に連れていってくれた。凛が黙っていても、美月が代わりに笑い代わりに喋り凛のぶんの居場所まで、その場に作ってくれた。美月という通訳がいれば世界は、ちゃんと音を持っていた。


 その通訳がいなくなった。


 以来世界は、字幕のない外国映画のようだった。映像は流れている。人々は何かを話している。けれど意味が届かない。


 その夜凛は気づかなかった。いつのまにか部屋の冷蔵庫の唸りが、ほんのわずかに、低くなっていたことに。聞き取れないほどわずかに。何かがその音にもう一つ別の音を、そっと重ねはじめていた。


 これから来るものが、もう扉の外で待っていた。

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