第01話「無響」
――これを読んでいるあなたへ。
もしこれが文字として読めているなら。
もし行と行のあいだに、何の音も挟まっていないのなら。
それは、私がまだ間に合っているということです。
だから最後まで読んでください。
どうか最後の一行まで、聞こえてしまわないうちに。
これは音の話です。
聞こえる音と、聞こえない音と、目に見える音の話。
これは、ある家族が二十六年かけて、一人の少女を――やがて私を、音に変えようとした記録です。
私が誰なのかは、もう思い出せません。それでも書きます。
忘れてしまう前に。あなたが、同じものを手にしてしまう前に。
もし、あなたの部屋で、聞こえないはずの音が聞こえはじめているなら。
自分の声が、わずかに遅れて追いかけてくるなら。
でも……もう、手遅れかもしれません。
*
最初に音のない映像があった。
防音室。三方の壁を覆う吸音楔が、光をくぐもらせている。灰色の三角錐が隙間なく並び、そのひとつひとつが影を抱え込んで、部屋の奥行きを溶かしている。距離感が掴めない。壁はすぐそこにある。同時に、無限に遠い。音を逃さないための部屋は、視界からも遠近を奪う。観ている者は、ぼんやりそう思う。
中央に、一台のアップライトピアノ。古いがよく手入れされている。蓋は開かれ艶を失った鍵盤が、それでも白く浮かんでいる。
その前に、白いワンピースの少女が座っていた。
十四歳くらいだろうか。痩せている。痩せすぎている。ワンピースの肩から鎖骨が浮き、袖口に手首の骨が引っかかっている。指が鍵盤を弾くというより、鍵盤に支えられて、かろうじて落ちずにいる。頬はこけ、唇は薄い紫色をしていた。血の気が、足りない。
少女が弾きはじめる。
けれど音は聞こえない。映像には音がない。
少女の指が鍵盤を押さえ、戻し、また押さえる。旋律を紡いでいる。胸が浅く上下する。唇が拍子を数えている。なのに、耳には何も届かない。動きだけがある。音が、ない。動きの抜け殻だけが、そこにある。
無音とは違った。
無音なら、まだ救いがある。これは違う。音が吸われているのではない。生まれていない。鍵盤は沈んでいるのに、その先にあるはずの音だけが、最初から存在しない。少女がどれだけ強く叩いても、音は生まれる前に、殺されている。
不意に少女が顔を上げた。
カメラを見た。
いや――カメラの向こうを見た。レンズをフィルムを二十六年という歳月を、まっすぐに通り抜けていつか、これを観ることになる誰かを。
その目だけが、生きていた。落ちくぼんだ眼窩の奥が、燐光を宿していた。死期を悟った者の静けさと、それでも消えない何か。諦めではない。祈りでもない。もっと切実で、もっと一方的な――こちらを掴んで、離さない何か。
唇が動いた。
音のない言葉。
た――す――
そこまで読み取れたとき、映像は途切れた。




