第44話「残っているのに、ない」
目を覚ますと雪が降っていた。
窓の外。街に音もなく、白い雪が積もっていく。灰色の空から無数の白い点がゆっくりと、舞い降りてくる。向かいのマンションの屋根も、電線も駐車場の車もすべてが、白く覆われはじめていた。世界がまっさらな一枚の紙に、戻ろうとしているようだった。
少女は床に倒れていた。フローリングの冷たさが、頬にじかに伝わってくる。指先がかじかんでいた。どれくらい気を失っていたのか、分からない。日付の感覚もなかった。それどころか――自分が誰なのかも、すぐには思い出せなかった。
ただひとつだけ。
胸の奥でとくんとくん、と何かが鳴っていた。
自分の心臓の音だった。
ほかの何も思い出せないのに、その音だけが確かにそこにあった。生きているという音。まだここにいるという、ただひとつのしるし。少女は無意識に胸に手を当てた。手のひらにその鼓動が、伝わってくる。なぜだろう。その音を聞いていると、泣きたいような守られているような、不思議な気持ちになった。まるで誰かが、この音だけは消させまいと必死に、守ってくれたかのように。
ゆっくりと起き上がる。
部屋は静かだった。低く唸る音。窓をかすかに叩く音。遠くを過ぎていく音。たしかに、聞こえている。けれど――それが何の音なのか、脳が判じるまでに、奇妙な一拍があった。唸る音。……ああ、冷蔵庫だ。叩く音。……雪か。過ぎていく音。……車。ひとつひとつ、後から名前を貼りつけていくように。まるで、音と意味のあいだの糸が、どこかでほんの少し、ほつれてしまったように。
生活の音。世界には、たしかに音があった。
だが彼女の頭の中には、何もなかった。
自分の名前すらおぼろげだった。机の上の郵便物に書かれた宛名を見て、ようやく佐々木凛、というのが自分らしいと知る。けれどその名前に、何の手応えもなかった。この部屋で自分が、どんな日々を過ごしてきたのか。誰と出会い誰を失ったのか。何も思い出せない。生まれてからの記憶が、まるごと抜け落ちていた。
ただ胸の奥に、空っぽの形をした痛みだけがあった。大切な人が何人もいた。確かにいた。その人たちのことを、自分はもう思い出せない。覚えていないのに、失ったことだけは分かる。それがたまらなく悲しかった。
窓の外を見た。雪の降る街に、人影はまばらだった。スマートフォンには『圏外』の文字。タイムラインは、ある夜の書き込みで止まったまま。何かが街から、電気も、人の声も、いちどきに奪っていったかのようだった。
それでも――耳を澄ませば、遠くでかすかに、誰かが雪をかく音がした。どこかの窓に、灯りがともっていた。
世界は、終わってはいなかった。それぞれの場所で、誰かが、まだ戸惑いながら、息をしている。ただ凛には、それを喜ぶための記憶さえ、もうなかった。
――美波。
ふいにその名前が胸に浮かんだ。
なぜだろう。何も思い出せないのに、その響きだけがなぜか鮮明だった。誰なのかは分からない。ただ大切な人だった。それだけは確かに分かる。
机の上に、一冊の古い大学ノートがあった。表紙に震える字で、こう書かれていた。
「たいせつな せんぱいの こと」
その隣には古いICレコーダーと、一巻のフィルムが置かれていた。凛はレコーダーの再生ボタンを、押してみた。女の人の声が流れた。「凛。だいすきよ」。優しいけれど知らない声。たぶんこれが母なのだろう。そう頭では思う。けれど胸は何も答えない。フィルムを光にかざす。痩せた少女の横顔。これも知らない顔。自分はこの人たちと、生きてきたはずなのに。その実感がどこにもない。
事実は、ぜんぶ残っていた。これが母で、これが大叔父に奪われた少女で、と、文字を追えばわかる。わかる、それだけだ。母の声の温度も、少女の指の痛みも、その事実のどこにも、もう宿っていない。
残っているのに、ない。
それが、いちばん、こたえた。




