第45話「これを読んでいるあなたへ」
それでも。
凛はノートを開いた。
中には知らない誰かの字で、たくさんのことが書かれていた。佐々木凛先輩という名前。二人で集めた音のデータ。VHS。カセット。柳沢美咲という少女。ムネモシュネという装置。母のこと。そして――最後のページの、メッセージ。
「せんぱいならできる。わたしはせんぱいのこと、わすれても……このノートがおぼえてる」
その文字はひどく震えていた。後半になるほど線が乱れいくつかの字は、判読すら難しい。書いた人が自分の記憶が消えていくのと、必死に競争しながら、それでも書き続けたのだとひと目で分かった。インクはところどころ、にじんでいた。涙の跡だった。そして最後の一行だけは、紙の繊維を突き破るほどの筆圧で、刻みつけるように書かれていた。忘れたくないという叫びが、そのまま紙に傷として残っていた。
ムネモシュネは人の意識を、滑らかな音のデータに変えて、冷たく保存しようとした。しかしこの人が遺したのは、震える手と涙と、紙を破るほどの力で刻んだ不格好な、けれど確かに温かい記録だった。
凛は長いあいだ、その一行を見つめていた。
覚えていないのに涙がこぼれた。
この美波という人は、忘れられることに抗って自分の記憶を、紙に逃がしていた。人の頭からは消せるものを、消せない場所へ。そして今自分のすべてを失った凛の中に、たった一つ、名前だけを残してくれた。
頭の中のものは消えてしまう。だが外に刻まれたものは残る。
ノートのいちばん後ろのページに、連絡先が書いてあった。その下に、ひときわ乱れた字で、走り書きが添えられていた。
「ここにかけて。でないかもしれない。わすれてるかもしれない。でも、いきてたら、でる。だから、いきて、かけて」
でないかもしれない。忘れているかもしれない。それでも――生きていたら、出る。
凛は、その一行を、長く見つめた。
誰が書いたのかは、分からない。「みなみ」という、その名前の持ち主の顔も、声も、もう思い出せない。それでも、この乱れた字を見ていると、胸の奥が、わけもなく震えた。覚えていないのに、泣きそうになる。この人は、自分の頭が真っ白になっていくのを知りながら、それでも最後の力で、凛に「生きて」と書き遺したのだ。記憶よりも、ずっと深いところに、その願いだけが、まだ残っている気がした。
美波が消えたのか、それともどこかで、自分とおなじように記憶を失くして、けれど息をしているのか。それは分からなかった。けれど逆位相は、同期を打ち消した。音に呑まれかけた人々を、その手前から引き戻したはずだった。さっき窓の外で聞こえた、雪をかくあの音のように。だとしたら、美波も、どこかに。
出るか出ないかではなく、凛が生きて、かけること。美波はただ、それだけを願っていた。最後の最後まで、自分よりも凛の側に立って。
凛はこの番号に、かけてみようと思った。「はじめまして」になるのか「おかえり」になるのかは、分からない。呼び出し音が、いつまでも鳴りつづけるだけかもしれない。それでも、かける。生きて、かける。それが、この人の願いだったから。
そうだ、と凛は思う。机の上のものたちが――ICレコーダーが、フィルムがこのノートが、自分が誰だったかを教えてくれる。そしてポケットの中のスマートフォンには、もう誰なのか思い出せない「みつき」という人の明るい声の留守電が、一件だけ残っていた。覚えていなくても、辿ることはできる。記録は人を、閉じ込めもするけれど。残しもする。
凛はノートの最後の、白いページを開いた。そしてペンを執った。
書きはじめた。ノートから読み取ったすべてを。覚えていない自分の物語を。柳沢美咲のこと。ムネモシュネのこと。母のこと。美波のこと。記録だけを頼りに失った自分をもう一度、つなぎ直すように。
誰かがまた、同じことを繰り返さないように。記録が人を永遠に閉じ込める、その罪を忘れないように――いや、もう忘れてしまった自分が、せめて知っておくために。
最初の一行を凛はこう書いた。
――これを読んでいるあなたへ。
もしこれが文字として読めているなら。もし行と行のあいだに、何の音も挟まっていないのなら。それは私がまだ間に合っている、ということです。
窓の外で雪が降り続けていた。
音もなく。けれど確かに世界はまだそこにあった。さっきまで、誰かが雪をかく音が、遠くで聞こえていた。生きている人の音が。そして胸の奥には美波、という名前がひとつ。
凛はペンを握りなおし、続きを書きはじめた。
たった一人生き残った、最後の残響として。
どれくらい書いただろう。ふと、凛はペンを止めた。
さっきの、雪をかく音。
いつのまにか、聞こえなくなっている。
雪がやんだのかもしれない。その人が、家に入っただけかもしれない。凛は耳を澄ませた。けれど――さっき確かに聞こえていたはずのその音が、どんな音だったのか、もう思い出せなかった。たった今のことなのに。
気のせいだ。
凛はもう一度ペンを握り、続きを書いた。それしか、できることはなかった。書いている文字のあいだに、何の音も挟まっていないことを、祈りながら。




