第43話「しんとした部屋」
部屋は、しんとしていた。
壁を覆っていた灰色の吸音楔が、剥がれるように消えていく。せり出していた壁が退き、見慣れた壁紙が戻ってくる。あの防音室は、もうどこにもなかった。ただの、佐々木凛の部屋。散らかった机。たたんでいない洗濯物。あの夜、VHSを観おわって振り返ったときと、同じ部屋。あのときは、何もない、誰もいないと思った。今は違う。ここで、たしかに別れがあった。
凛は床に座り込んだまま、しばらく動けなかった。
終わった。
美咲はもういない。けれど、消えたのではない。やっと、出られたのだ。二十六年、たった一人で弾きつづけた、あの音の檻から。最後に美咲は、たしかに笑った。音ではなく、一人の女の子の顔で。
凛は、誰もいなくなった部屋の空気に、そっと言った。
「……おやすみ、美咲」
はじめて、たすけてに、返事ができた気がした。間に合わなかった美月のときとは、違った。今度こそ、聞いた。聞いて、応えた。胸の奥がしんと静かで、けれど痛いだけではなかった。
窓の外を見ると、雪が降りはじめていた。
ほんの少しだけ、凛は息をついた。その一拍が、終わってしまえば、あとはもう、坂を転がるようだった。
*
命が残るのと引き換えに、別のものが奪われていった。
逆位相は、ムネモシュネを打ち消した。世界中の記録された意識を。同期しかけたすべての音を。そして――凛の中の記憶も。
音でできた呪いを音で消す。その逆位相の波は凛の意識から、音と結びついたすべての記憶を根こそぎ、削り取っていった。まるでカセットテープの磁気を、強力な磁石で一瞬にして白紙に戻すように。ジジと醜いノイズを立てて。母の声。父の狂気。美咲の旋律。防音室。フリマアプリ。半年前に死んだ親友の名前。生まれてからの二十六年の、ありとあらゆる音の記憶が。
ついさっき。
「あなたを覚えてる。ずっと」と美咲に誓ったばかりだった。その言葉さえその相手の顔さえ、ジと音を立てて白く消えていく。覚えていると誓った、その約束ごと忘れていく。これ以上の裏切りが、あるだろうか。だが凛にはもうそれが裏切りであることを、悲しむための記憶すら、残っていなかった。
凛の中から過去が消えていく。
誰かが、自分を呼んでいた気がする。大切な人が何人もいた気がする。だがその顔も名前も、声ももう思い出せない。自分が何を失ったのかさえ、分からなくなっていく。まっさらな無音の頭の中。
ああこれもムネモシュネと同じだ、と凛は薄れゆく意識で思った。記録を消すことは人を閉じ込めることと、同じくらい残酷なのだ。
けれど――最後の最後。すべての記憶が流れ去っていく、その濁流の中で。
たった一つだけ流されずに、残ったものがあった。
名前だった。
「……美波」
なぜそれだけが残ったのか、凛には分からなかった。誰なのかももう思い出せない。でもその名前だけは、胸の奥に楔のように、打ち込まれて離れなかった。
ずっと前に誰かが、忘れられることに抗って外側に――紙に、記憶を刻んでいた。人の頭から消せるものを、消せない場所へ逃がしていた。その記録がめぐりめぐって、今凛の中に、たった一つの名前として残っていた。
なぜ美波だったのか。母でも美咲でも美月でもなく。
たぶんこうだ。あの子は自分が忘れられることより、凛が消えることを恐れた。「わたしのことは忘れてもいい。あなたは生きて」と願った。自分を覚えていてほしい、ではなく。あなたが生きてさえいれば、いいと。その見返りを求めない祈りだけが、逆位相の濁流にも、流されなかった。誰かの「生きて」という願いは記憶よりも、深いところに届くのかもしれない。
だから凛のなかに、美波の名が残った。覚えていてほしいと願った人ではなく、忘れていいと願った人の名が。
記憶は消えても。記録は残る。そして誰かの願いも。
凛はその名前だけを、握りしめて意識を手放した。




