表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
42/45

第42話「無音の残響」

 「美咲ちゃん」と凛は言った。


「これを鳴らしたら、あなたも消えるかもしれない。二十六年ずっとここにいたのに」


 「うん」美咲は言った。穏やかな声だった。


「でもそれでいいの。わたしずっとおわりたかった。えいえんはさみしすぎたから。りんちゃんがきてくれて、やっとおわれる」


 影が凛の隣で微笑んだ気がした。


 「りんちゃん。さいごにおねがいきいて」


 「なに」


 「わたしのなまえよんで。おとじゃなくてひととして。みさきって」


 凛は涙をこらえて言った。


 「美咲。柳沢美咲。あなたは音じゃない。一人の女の子だよ。ピアノが好きでお母さんが好きで、生きたかった女の子。私はあなたを覚えてる。ずっと」


 影がふわりとほどけた。けれどそれは同期に溶けるのとは違った。安らかに。やっと眠るように。


 凛は再生ボタンを押した。


 逆位相が鳴った。


 けれど、それだけでは足りなかった。


 スピーカーから流れ出した逆の波は、部屋を満たす唸りと出会い、ぶつかり、けれど――噛み合わない。山と谷が、わずかにずれている。打ち消しきれない。装置の定在波は、機械の鳴らす音より、もっと生々しく、もっと不規則に脈打っていた。意識の振動。生きていた人間の、揺らぎ。機械の正確さでは、捉えきれない。


 凛は悟った。これを合わせられるのは、スピーカーじゃない。


 自分の体だ。


 子どもの頃から、人より深く響いてしまう体。教室のざわめきも、冷蔵庫の唸りも、誰にも聞こえない音まで拾ってしまう体。母が「聞きすぎる」と怯えた、この忌まわしい体質。それは呪いの器であると同時に――この世でただ一つ、ムネモシュネの揺らぎと同じ周波数で震えられる、共鳴体でもあった。


 凛は目を閉じた。胸に手を当てる。自分の心臓の音を探す。半年間、味も匂いも遠ざかったなかで、恐怖のときだけ生々しく打っていた、あの鼓動。


 逆位相の波に、自分の鼓動を重ねた。


 ずれを、体で埋めていく。スピーカーが取りこぼした不規則な揺らぎを、響きすぎる凛の体が、一拍ずつ拾って、合わせていく。


 全身が、軋んだ。


 心臓が、自分のものでないリズムに、無理やり引きずられる。鼓動と逆位相が二重に重なって、胸の奥が裂けそうだった。骨の芯が低く鳴る。胃の底から熱いものが込み上げ、視界が白く滲む。耳の奥で、何かがぶつりと切れる音がした。鼻血が、唇を伝って落ちた。それでも凛は、歯を食いしばって、ずれを埋めつづけた。


 あと少し。あと、少し。


 山と、谷が、噛み合った。


 その瞬間――世界中の音が、急に吸い込まれていった。街を満たしていた低い唸りが、ぶつけられた逆の波と出会い、相殺され、消えていく。


 『やめろ! やめろ、やめろやめろ――!』


 正臣の声が、はじめて、絶叫になった。二十六年、どこまでもやさしい声で娘を音に変えつづけた男が、その慈愛の仮面をはじめて剥ぎ取られて、取り乱していた。自らの築いた永遠が崩れていく音を聞いて。男の黒い影が、逆位相の波に、輪郭から削られていく。


 『私の美咲が……私の、永遠が……』


 その声が引き伸ばされ、低くなり、やがて意味をなさない唸りになり――打ち消されて、消えた。


 愛していた、と男は言った。


 ただ最後まで、娘の名は呼んでも、娘の声は、聞かなかった。


 無音が広がった。


 完全な無音。あの防音室の無響よりも、深い静寂。世界中の音が打ち消され、同期の定在波がほどけ溶けかけていたすべてが、音のなかへ引き戻されていく。


 凛はその無音の中心に立っていた。すべての音が消えたその一点で。


 そして感じた。逆位相の音が、凛自身も貫いていく。最後の一音である凛を。自分の輪郭が、音とともに薄れていく。


 まずいと思った。装置だけでなく自分まで消える。逆位相はムネモシュネの音も、その核である凛の音も、区別なく打ち消そうとしていた。意識が薄れる。輪郭がほどける。このまま音になる――


 そのとき。


 『りんちゃん!』


 美咲の声が装置の内側から、凛を掴んだ。


 『りんちゃんはおとじゃない。まだいきてる。わたしがおさえてるから。りんちゃんのいちばん、おくのおとだけはけさせない』


 美咲が装置の中から、凛の核を――凛の意識の振動だけを、逆位相の波からかばっていた。二十六年音の檻に閉じ込められてきた少女が、その内側を誰よりも知る者として、たった一つ凛の心臓の音だけを、消える流れから押し返していた。


 自分が消えることと引き換えに。


 『りんちゃん』と、美咲の声が笑った気がした。穏やかな満ち足りた声だった。『わたしねやっと、きいてもらえた。たすけてって。にじゅうろくねんずっとだれにも、きいてもらえなかった。でもりんちゃんがきいてくれた。それだけでもうじゅうぶん』


 二十六年。誰にも届かなかったたすけて。それがたった一人に届いた。美咲が望んだのは、助かることでも永遠になることでもなかった。ただ誰かに聞いてほしかった。そのささやかな願いが、最後に叶ったのだ。


 『りんちゃん。いきて。わたしのぶんもせかいの、おとをきいて。きれいなおとをいっぱい』


 その声を最後に美咲の気配が、ほどけていった。ただそれは父に音にされて消えるのとは、まるで違った。長い夢から覚めるように。やっと眠れるように。安らかに。二十六年ぶりにあの防音室から、本当に解き放たれて。


 凛の輪郭が薄れるのを止めた。装置から解き放たれるように、けれど消えはせずに。


 消えるすべての音の、いちばん最後に。ひとつだけ残った響きがあった。打ち消されなかった音。それは――凛の心臓の音だった。生きているという音。美咲が最後の力で守りぬいた音。


 二十六年、誰よりも長くこの装置の中にいた美咲だけが、知っていた。逆位相がすべてを呑み込んでいくなかで、たった一つ、どの波形にも溶けない響きがあることを。だから守れた。世界中の音が消えていく激流の底から、凛の鼓動だけを、両手ですくいあげるように。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ