第42話「無音の残響」
「美咲ちゃん」と凛は言った。
「これを鳴らしたら、あなたも消えるかもしれない。二十六年ずっとここにいたのに」
「うん」美咲は言った。穏やかな声だった。
「でもそれでいいの。わたしずっとおわりたかった。えいえんはさみしすぎたから。りんちゃんがきてくれて、やっとおわれる」
影が凛の隣で微笑んだ気がした。
「りんちゃん。さいごにおねがいきいて」
「なに」
「わたしのなまえよんで。おとじゃなくてひととして。みさきって」
凛は涙をこらえて言った。
「美咲。柳沢美咲。あなたは音じゃない。一人の女の子だよ。ピアノが好きでお母さんが好きで、生きたかった女の子。私はあなたを覚えてる。ずっと」
影がふわりとほどけた。けれどそれは同期に溶けるのとは違った。安らかに。やっと眠るように。
凛は再生ボタンを押した。
逆位相が鳴った。
けれど、それだけでは足りなかった。
スピーカーから流れ出した逆の波は、部屋を満たす唸りと出会い、ぶつかり、けれど――噛み合わない。山と谷が、わずかにずれている。打ち消しきれない。装置の定在波は、機械の鳴らす音より、もっと生々しく、もっと不規則に脈打っていた。意識の振動。生きていた人間の、揺らぎ。機械の正確さでは、捉えきれない。
凛は悟った。これを合わせられるのは、スピーカーじゃない。
自分の体だ。
子どもの頃から、人より深く響いてしまう体。教室のざわめきも、冷蔵庫の唸りも、誰にも聞こえない音まで拾ってしまう体。母が「聞きすぎる」と怯えた、この忌まわしい体質。それは呪いの器であると同時に――この世でただ一つ、ムネモシュネの揺らぎと同じ周波数で震えられる、共鳴体でもあった。
凛は目を閉じた。胸に手を当てる。自分の心臓の音を探す。半年間、味も匂いも遠ざかったなかで、恐怖のときだけ生々しく打っていた、あの鼓動。
逆位相の波に、自分の鼓動を重ねた。
ずれを、体で埋めていく。スピーカーが取りこぼした不規則な揺らぎを、響きすぎる凛の体が、一拍ずつ拾って、合わせていく。
全身が、軋んだ。
心臓が、自分のものでないリズムに、無理やり引きずられる。鼓動と逆位相が二重に重なって、胸の奥が裂けそうだった。骨の芯が低く鳴る。胃の底から熱いものが込み上げ、視界が白く滲む。耳の奥で、何かがぶつりと切れる音がした。鼻血が、唇を伝って落ちた。それでも凛は、歯を食いしばって、ずれを埋めつづけた。
あと少し。あと、少し。
山と、谷が、噛み合った。
その瞬間――世界中の音が、急に吸い込まれていった。街を満たしていた低い唸りが、ぶつけられた逆の波と出会い、相殺され、消えていく。
『やめろ! やめろ、やめろやめろ――!』
正臣の声が、はじめて、絶叫になった。二十六年、どこまでもやさしい声で娘を音に変えつづけた男が、その慈愛の仮面をはじめて剥ぎ取られて、取り乱していた。自らの築いた永遠が崩れていく音を聞いて。男の黒い影が、逆位相の波に、輪郭から削られていく。
『私の美咲が……私の、永遠が……』
その声が引き伸ばされ、低くなり、やがて意味をなさない唸りになり――打ち消されて、消えた。
愛していた、と男は言った。
ただ最後まで、娘の名は呼んでも、娘の声は、聞かなかった。
無音が広がった。
完全な無音。あの防音室の無響よりも、深い静寂。世界中の音が打ち消され、同期の定在波がほどけ溶けかけていたすべてが、音のなかへ引き戻されていく。
凛はその無音の中心に立っていた。すべての音が消えたその一点で。
そして感じた。逆位相の音が、凛自身も貫いていく。最後の一音である凛を。自分の輪郭が、音とともに薄れていく。
まずいと思った。装置だけでなく自分まで消える。逆位相はムネモシュネの音も、その核である凛の音も、区別なく打ち消そうとしていた。意識が薄れる。輪郭がほどける。このまま音になる――
そのとき。
『りんちゃん!』
美咲の声が装置の内側から、凛を掴んだ。
『りんちゃんはおとじゃない。まだいきてる。わたしがおさえてるから。りんちゃんのいちばん、おくのおとだけはけさせない』
美咲が装置の中から、凛の核を――凛の意識の振動だけを、逆位相の波からかばっていた。二十六年音の檻に閉じ込められてきた少女が、その内側を誰よりも知る者として、たった一つ凛の心臓の音だけを、消える流れから押し返していた。
自分が消えることと引き換えに。
『りんちゃん』と、美咲の声が笑った気がした。穏やかな満ち足りた声だった。『わたしねやっと、きいてもらえた。たすけてって。にじゅうろくねんずっとだれにも、きいてもらえなかった。でもりんちゃんがきいてくれた。それだけでもうじゅうぶん』
二十六年。誰にも届かなかったたすけて。それがたった一人に届いた。美咲が望んだのは、助かることでも永遠になることでもなかった。ただ誰かに聞いてほしかった。そのささやかな願いが、最後に叶ったのだ。
『りんちゃん。いきて。わたしのぶんもせかいの、おとをきいて。きれいなおとをいっぱい』
その声を最後に美咲の気配が、ほどけていった。ただそれは父に音にされて消えるのとは、まるで違った。長い夢から覚めるように。やっと眠れるように。安らかに。二十六年ぶりにあの防音室から、本当に解き放たれて。
凛の輪郭が薄れるのを止めた。装置から解き放たれるように、けれど消えはせずに。
消えるすべての音の、いちばん最後に。ひとつだけ残った響きがあった。打ち消されなかった音。それは――凛の心臓の音だった。生きているという音。美咲が最後の力で守りぬいた音。
二十六年、誰よりも長くこの装置の中にいた美咲だけが、知っていた。逆位相がすべてを呑み込んでいくなかで、たった一つ、どの波形にも溶けない響きがあることを。だから守れた。世界中の音が消えていく激流の底から、凛の鼓動だけを、両手ですくいあげるように。




