第41話「呼ぶ声」
『りんちゃんだめ!』
美咲の声が凛を、現実へ引き戻した。
『おとうさんの、こえをきいちゃだめ。それはあいじゃない。おとうさんはわたしを、いちどもにんげんとしてみてくれなかった。きれいなおとだって、それしかいわなかった』
凛は奥歯を噛んだ。正臣の声に呑まれかけた意識を、必死に繋ぎとめる。優しい。優しすぎる。この声は美咲の名を、一度も呼ばなかった。「美しい音」とは言った。「固有振動」とも言った。けれど名前は、呼ばなかった。
「あなたは」凛は震える声で、空気そのものに言い返した。「美咲ちゃんを、一度も助けなかった。たすけてって、ずっと言ってたのに。あなたが聞いてたのは、娘じゃない。音だけだった」
言いながら凛の中で、たくさんの声がよみがえっていた。
美咲のたすけて。二十六年、誰にも届かなかったピアノの叫び。美月の、ひとりで抱えこむな、あたしが聞くから。間に合わなかった最後の留守電。母の、あなたは聞きすぎるのよ。怯えながら、それでも凛を守ろうとした祈り。美波の、あなたは生きて。自分を忘れることと引き換えに遺した、願い。
録音機を握って、咳の音を採っていた手。背中をさすりながら、計器の針だけを見ていた目。この男は二十六年、世界でいちばん克明に娘を録りつづけて、ただの一度も、娘の声を聞かなかった。
「私は、あなたと違う」凛は声を振り絞った。「ちゃんと聞いた。美咲ちゃんのたすけてを。美波の生きてを。あなたが二十六年、聞かなかった声を。全部、聞いたよ」
男の影が、ゆっくりと揺れた。
『……ああ』
その声は、怒らなかった。凛が責めても、なじっても、正臣の声はどこまでもやわらかいままだった。むしろ、慈しむように、凛のほうへ近づいてきた。
『そうか。おまえは、聞ける子なんだね。美咲と同じだ。いや、美咲より、ずっと深く響く。なんて美しい振動だ。ずっと、待っていたんだよ。おまえのような子を』
怒鳴られるより、ずっと怖かった。この声には、悪意がなかった。憎しみも、敵意もない。ただ、あたたかい。我が子を見るような、まなざしの温度が、声に滲んでいた。
『怖がらなくていい。お父さんが、おまえも永遠にしてあげる。もう、何も失わなくていい。誰にも忘れられない。美咲と、お母さんと、みんなで一つの音になろう。家族で、ずっと一緒に。……ね、おいで』
おいで。
そのやさしさが、骨まで凍らせた。この男は本気で、これを愛だと信じている。娘を音に変えたことも、凛を呼び寄せたことも、すべて愛だと。一度も疑わずに。だからこそ、二十六年、たった一度も、美咲の名を呼ばなかった。たすけて、を聞かなかった。聞く必要が、なかったのだ。これは愛なのだから。
その慈愛の声に、凛の意識が、とろりと溶けかけた。あらがう力が、抜けていく。おいで。家族で、ひとつに。その響きは、半年間ひとりぼっちだった凛の、いちばん柔らかいところを、そっと撫でた。
意識の端が、白く霞んでいく。
その霞のなかを、いくつかの光が、よぎっては消えた。
あのカフェの、雨の音。プリンをふたつ。小指を絡めて交わした約束。――けれど、誰と。その顔が、もう滲んで見えない。母の声が、どこかで自分を呼んでいる気がする。あなたは生きて、と。でも、聞き取れない。遠い。届かない。美月の、だいすき、という最後の声。それさえも、甘い唸りの底に、沈んでいく。
みんな、ここにいるよ。父の声が、やさしく言う。だから、おいで。
そうか、と凛は思いかけた。みんな、ここに。だったら――。
だめだ。呑まれる。
凛はスピーカーを握りなおした。あとは再生ボタンを押すだけ。
けれど指が動かない。
ボタンまでほんの数センチ。その数センチが、永遠のように遠い。やさしい声が、凛の腕に、まとわりついている。指を曲げようとするだけで、関節が軋む。見えない手が何本も凛の手首を、撫でるように、けれど決して離さずに、引き戻そうとしている。汗が額を伝い顎から落ちた。腕が鉛のように重い。一ミリまた一ミリ。凛は全身の力を指先の、たった一点に集めた。
それでも指はあと一歩のところで、止まってしまう。やさしさは、力よりも強かった。憎しみなら、振り払えた。けれどこの温度は、振り払おうとするほど、凛の芯に染みてくる。意識がまた白く霞みはじめる。だめだ。届かない――
『りんちゃん!』
そのとき美咲の声が響いた。そして凛の手にもう一つの手が、重なる感覚があった。冷たくけれど確かな小さな手。二十六年、ピアノを弾きつづけたあの手。
『わたしもてつだう。ふたりならとどく』
美咲が装置の内側から、父の力に抗っていた。慈愛という名の拘束を、娘が押し返す。二十六年、ただ怯えるしかなかった少女がはじめて、父のやさしさに、逆らっていた。凛のために。
『おとうさん。わたし、もう、あなたのおとには、ならない』
その声に、はじめて正臣の気配が、揺れた。娘に「いや」と言われること。それだけが、この男の慈愛の、たった一つのほころびだった。絡みついていた手が、わずかに緩む。
『いまだよりんちゃん!』
凛は最後の力を振り絞った。美咲の手と凛の手。二つの力がひとつになって、父の腕を振り切る。
指がボタンに届いた。
あとは押すだけ。だがその前にたった一つ、しなければならないことがあった。




