第40話「核へ」
逆位相は完成した。
美波のノートの手順どおりに、母が遺した基準の音を軸として。五つのメディアの波形を重ね、美咲の光学トラックを加え、そのすべてを完全に反転させた音。ムネモシュネの定在波とぴったり山と谷が噛み合って、打ち消し合う、ただ一つの波形。
けれどそれをぶつけるには、装置の核に近づかなければならなかった。
ムネモシュネの箱は、どこにあるのか。
『りんちゃんこっち』
声が頭の中に直接響いた。美咲だった。装置の内側から彼女が、凛を導いていた。約束のとおりに。中から教えてくれている。
『おとのいちばんふかいところ。みえないでしょ。でもわたしにはみえる。ずっとここにいたから』
美咲の声に引かれて、凛は部屋を見渡した。そして、わかった。探していた箱は、どこにもない。VHSが、カセットが、MDが、フロッピーが、フィルムが。再生されるたびに、その音はこの部屋の空気そのものに沁みていた。二十六年分の音が、四方の壁のあいだで折り重なり、編み上がっていた。
ムネモシュネの核は、いま、この部屋だった。
そしてその中心に立っているのは。
凛自身だった。
最後の一音。器。柳沢の血。凛がいるこの一点が、装置の心臓だった。美咲が内側から指し示してくれなければ、永遠に気づけなかった場所。
逆位相をぶつけるとは、自分の立つ場所へ向けて、それを鳴らすこと。世界を呑む音を消すために、自分を貫く音を鳴らすこと。
凛はICレコーダーにつないだスピーカーを握りしめた。再生ボタンに指をかける。
怖くなかったと言えば嘘になる。
けれど凛はひとりではなかった。隣に灰色の影。そして頭の中に美咲の声。ずっとひとりだった少女が、今凛のために、装置の内側から力を貸していた。
その指が、ボタンを押そうとした瞬間。
部屋の空気がぐにゃりと歪んだ。
そして――凛の部屋が、変わりはじめた。
壁がせり出してくる。いつもの見慣れた壁紙が、剥がれるように消えその下から、灰色の吸音楔が現れる。三角錐が隙間なく天井を床を、四方の壁を覆っていく。あの映像で見た防音室。二十六年前、美咲が閉じ込められたあの部屋。それが凛の現実を、侵食し塗り替えていく。距離感が溶ける。壁がすぐそこにあるようで、無限に遠い。音を逃さない部屋が、凛を内側へ内側へと閉じ込めていく。
その先に待つものが、はっきりと見えた。同期が完成すれば凛もまた、美咲と同じこの無響の檻の、永遠の住人になるのだ。
超低周波が急に強くなった。凛の眼球が震え視界がぶれる。そのぶれた視界の中に――もう一つの影が、立ち上がった。美咲のものではない。大きく黒く輪郭の濃い男の影。
『やめなさい』
声が部屋中の空気から響いた。低く抑揚のないあのMDの声。柳沢正臣。二十六年前に死に、自らムネモシュネに入った男。装置そのものとなって、いまもこの部屋に在りつづけていた。
『私は二十六年待った。美咲のために。お前のために。やっと家族が、ひとつの音になれる。永遠に離れずにすむ。それをお前は壊すというのか』
凛の手が止まった。空気が重い。鼓膜が内側から押される。正臣の意識が凛の体を、同期へ引きずり込もうと締めつけていた。指がボタンから、引き剝がされそうになる。
『逆らうな。お前も柳沢の血だ。最初からここに来るために、生まれてきた。さあおいで。みんな待っている』
甘く優しく底なしに、冷たい声だった。意識が引かれる。このまま押されてしまえば、楽になる。永遠に。痛みもなく――




