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第39話「美波のノート」

 凛は泣いている時間もなかった。


 逆位相を作らなければ。母が命がけで遺した基準の音。五つのメディアの波形。美咲の光学トラック。すべてを合わせて、ムネモシュネの定在波とぴったり反対の波を作る。それを装置の核にぶつける。


 でも凛は音響工学を知らなかった。波形を解析し、逆位相を生成する技術。それを持っていたのは――美波だった。


 凛は美波に電話をかけた。出ない。メッセージを送る。既読もつかない。美波も同期に呑まれたのか。それとも、凛のことを完全に忘れてしまったのか。


 絶望しかけたそのとき。


 部屋のドアの郵便受けが、コトンと鳴った。


 凛は駆け寄った。差し込まれていたのは、一冊の古い大学ノートだった。表紙に、震える字でこう書かれていた。


 「たいせつな せんぱいの こと」


 美波のノートだった。凛を忘れまいと、彼女が書きとめ続けた記録。


 開くと最初のページに、凛の名前。「佐々木凛先輩」。何度も何度も書かれていた。忘れないように。


 その先のページは、別人が書いたかと思うほど、字が違った。乱れもためらいもない、猛然と走らせたペン。数式。波形の図。手順の番号。逆位相の作り方が、隙間なく、緻密に書き込まれていた。まだ意識がはっきりしていた、いちばん早い段階で、一気に書き上げたのだとわかった。自分の頭がいつ空白になるか分からない――その恐怖のなかで、美波はまず、いちばん大事な命綱だけを、紙へ避難させたのだ。技術を、忘れる前に。


 手順のページが終わると、そこから先で、字が変わりはじめる。


 最後のページに、美波のメッセージがあった。


 「せんぱい。わたしたぶんもうすぐせんぱいのこと、ぜんぶわすれます。でもこのノートがあれば、せんぱいはたたかえる。わたしのかわりに。おとはおとでしかけせない。さかさまのおとをつくって。せんぱいならできる。わたしはせんぱいのこと、わすれても……このノートがおぼえてる」


 人の頭からは消せても。


 紙に書かれた記録は、消せなかった。


 美波は自分が忘れることを見越して、記憶をノートに避難させていたのだ。ムネモシュネが人の記憶を消す装置なら、紙という人の外側に、記憶を置けばいい。


 凛はもう一度、ノートを最初から繰った。手順のページの、あの猛々しいほど明晰な字。それが後半に進むにつれ、少しずつ崩れていく。同じことが何度も、繰り返し書かれはじめる。「佐々木凛先輩。音響工学の解析を手伝った。大切な人」。まるで書いたそばから忘れていくのを、必死に上書きするように。終わりのほうのあるページには「わたしはだれのことを、かいてるんだっけ」という、心細い走り書きまであった。技術を書き終えたあとの美波が、自分自身を失っていく過程が、そのまま紙に残っていた。それでも美波は書くのを、やめなかった。


 凛はその姿を想像した。記憶が音に削られていくなかで。自分が何を書いているのかさえ、わからなくなりながら。それでも机に向かい、震える手でペンを握り続けた後輩の姿を。たすけてではなく、せんぱいならできると。最後まで凛のことを案じながら。


 美波はもう凛を、覚えていないかもしれない。でもこのノートが覚えている。美波の代わりに。美波が確かに凛を、大切に思っていたことを。


 凛はノートを抱きしめた。


 一人じゃない。母がいる。美咲がいる。美波がいる。みんな消えても消えても、凛に武器を遺してくれた。記憶ではなく記録という形で。手の中に確かに残る形で。


 凛はノートを開きICレコーダーを再生し、五つの波形を並べた。


 逆位相を作りはじめた。


 慣れない作業だった。美波のノートの手順を、一行ずつ指でなぞりながら。波形を重ね位相を反転させ、また重ねる。少しでも間違えれば逆位相は、ただのノイズになる。ムネモシュネを強めてしまうことさえ、あるかもしれない。凛の指は震えていた。


 その間も窓の外では、世界が静かに終わっていった。


 遠くのビルの明かりが、ひとつまたひとつと消えていく。そこにいたはずの誰かが、音になっていく。街の唸りが少しずつ、低く大きくなる。同期が進んでいる。時間がない。凛が逆位相を、完成させるのが先か。世界がぜんぶ、音に呑まれるのが先か。


 額に汗がにじむ。手元の波形がぼやける。眠っていない。食べていない。半分同期に呑まれかけた体は、もう限界に近かった。それでも凛は手を止めなかった。


 美波のノートの最後の手順を、なぞり終えたとき。


 画面の中に一つの波形が、生まれかけていた。ムネモシュネの定在波と、ぴったり山と谷が噛み合う鏡うつしの波。逆位相。世界を呑む音を、ただ一つ打ち消せる音。


 あと少し。あと少しで完成する。


 凛は震える指で、最後の調整を続けた。美波が遺してくれた、この手順だけが頼りだった。ノートのページに残る、あの子の筆跡がまるで隣で、教えてくれているようだった。先輩ならできると。


 一人じゃない。みんながこの手の中にいる。


 凛は奥歯を噛みしめて、最後の波形に向き合った。

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