第38話「留守電」
母が消えた部屋で、凛はひとり座り込んでいた。
涙も出なかった。あまりに多くを失いすぎて、感情が追いつかない。美咲。母。美波ももう自分を忘れた。世界からは音が消え、人が消えていく。自分は何のために、まだここにいるのか。
そのときポケットの中で、スマートフォンが震えた。
着信ではなかった。画面がひとりでに点灯し留守番電話の、再生画面が開いていた。誰も触れていないのに。保存された一件の、古いメッセージ。日付は――半年前。
凛の心臓が止まりかけた。
半年前。美月が死んだその日。
ムネモシュネが、再生しようとしていた。凛のスマートフォンの奥に、ずっと眠っていた消せずにいた、たった一件の留守電を。装置は音という音を、すべて手繰り寄せる。だからこれも――美月の、最後の声も。
やめてと思った。けれど指は動かなかった。聞きたいという気持ちが、やめてという気持ちを上回っていた。半年間怖くて一度も、再生できなかった。消すこともできず、聞くこともできずただ抱えていた。美月の最後の声。
聞いてしまえば、認めることになる気がした。美月が本当にもういないことを。この声が、本当に最後だったことを。だから聞けなかった。再生しなければ、美月はまだ留守電の向こうで、生きているように思えた。再生ボタンを押すことはその、最後の希望を自分の手で、終わらせることだった。
半年間できなかったそれを。今ムネモシュネが強引に、始めようとしている。けれど不思議と、恨む気持ちはなかった。むしろ――今なら、聞ける気がした。これだけ多くを失った今なら。
再生がはじまった。
ノイズの向こうから、美月の声が聞こえた。
『あ、凛、凛? でないなー。寝てんのかな』
明るいいつもの美月の声だった。二回続けて名を呼ぶあの癖。凛の胸が、引き裂かれそうになった。半年ぶりに聞く親友の声。もう思い出せなくなっていた、その声。その二回呼ぶ声をこんなにも、聞きたかったのだと、聞いてはじめて気づいた。
『あのさ今度の日曜、ひま? 海で撮った写真現像したんだ。すっごいいいの撮れてさ。凛半分だけ笑っててウケる。渡したいから会おうよ』
たわいもない用件だった。けれどそれが美月の、最後の言葉になった。その日曜は来なかった。美月はその夜事故で死んだから。
『じゃまた連絡してー。……あそうだ。凛さ』
声が少しだけ優しくなった。
『あんまひとりで抱えこむなよ。あんたはいっつも黙ってぜんぶ、自分で背負っちゃうから。なんかあったら言えよ。あたしが聞くからさ』
なんかあったら言え。あたしが聞くから。
凛の頬を涙が伝った。
『じゃね。だいすき』
ぷつと留守電が切れた。
その瞬間凛は気づいた。
美月の最後の言葉。「だいすき」。母の最後の言葉も「だいすきよ」。そして――美咲が防音室で、ずっと弾いていたたすけて。美月の「ひとりで抱えこむな」と美咲の「だれにも、きいてもらえない」が重なった。
みんな誰かに聞いてほしかった。届いてほしかった。
美月の声は半年間、この小さな機械のなかに保存されていた。凛が怖くて、聞けないあいだもずっと。記録は待っていた。凛が聞く勇気を持つ日を。
そして今いちばん残酷なときに、いちばん必要な言葉を、届けてくれた。
ひとりで抱えこむな。
凛は涙を拭った。美月の声が美咲の声が、母の声が背中を押していた。まだ終わっていない。聞いてほしかった人たちの声を、自分がちゃんと終わらせる。閉じ込められた音を解き放つ。
凛は立ち上がった。
あとは、最後のひとつ。逆位相を完成させて、あの男のいる核へ、踏み込むだけだった。
たとえ、そこから二度と、自分が戻れないとしても。




