表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
37/45

第37話「空になる街」

 同期はその夜からはじまった。


 凛が最後のフィルムを観てしまったことで、ムネモシュネは最後の一音を手に入れた。装置は、二十六年待っていた完成へと動きはじめた。


 最初に消えたのは音だった。


 窓を開けると街が静かだった。いや静かすぎた。車の音がしない。人の話し声がしない。あれほどうるさかった東京の夜が、無響室のようにしんとしていた。


 その静寂は音が、ただ無いのではなかった。音がひとつ残らず、死に絶えたあとの静けさだった。音の死骸が雪のように、街じゅうに降り積もっている。そんな不吉な静寂だった。


 代わりに、低い唸りが街全体を覆っていた。あの超低周波。聞こえないはずの音。それが今や空気そのものになって、街を満たしていた。


 凛は外に出た。


 人がいた。しかし誰も喋らなかった。みんな立ち止まり空を見上げ、何かに聞き入るようにしていた。その表情から、少しずつ個性が抜けていく。喜びも悲しみも怒りも。ただ穏やかな、無の顔になっていく。


 一人の男が、凛の目の前で足を止めた。


 男は口を大きく開けた。何かを叫ぼうとしているようだった。しかしその口からは、何の音も出ない。声が出る前に奪われている。見開かれた目に恐怖が浮かんだ。その恐怖の表情のまま――男の輪郭が、テレビの砂嵐のように、ざらりとかすれた。


 次の瞬間男は消えた。世界から音声トラックを削除するみたいに、すっと。


 後に残ったのはアスファルトに落ちた、男のスマートフォンの、乾いたプラスチックの音だけ。それから低い唸りが、ほんの少しだけ大きくなった。


 人が音になっていた。一人また一人。けれど誰も穏やかになど消えていなかった。みな最後の一瞬声を奪われ、叫べないまま恐怖の顔で溶けていく。世界がムネモシュネの定在波に同期し、個を失い、一つの巨大な音へと呑まれていく。


 凛は駅前の、いつもの通りを歩いた。


 よく行くコンビニに、いつもの店員がいた。若い男の店員。名札に「タナカ」とあった。半年間、凛はこの店で、ほとんど口をきかなかった。いつも同じおにぎりと、同じお茶を買って、無言で受け取って出ていった。それでもいつからか、その店員は何も言わずに、袋を二枚に分けてくれるようになっていた。重くないように、持ちやすいように。礼を言ったことは、一度もなかった。名札の苗字以外、何も知らない相手だった。


 その店員が、レジの前で立ち尽くしていた。


 凛と目が合った。店員は、口を開けた。何か言おうとした。たぶん、いつもの「ありがとうございました」を。


 声は、出なかった。


 口は「ありがとう」の形に動いたのに、そこから音が生まれなかった。あの防音室のピアノと同じだった。動きだけがあって、音が、ない。凛はとっさに「タナカさん」と呼びそうになった。半年間、一度も呼ばなかった名前を。けれど声を出せば、自分も終わる。凛は口を固く結んだ。店員は、見開いた目に恐怖を浮かべたまま――その輪郭が薄れ、溶けて、消えた。


 彼が最後の一瞬、世界に遺そうとした声。声になりきれなかったその残り滓を、貪るように、街を覆う低い唸りが、ほんの少しだけ大きくなった。一人ぶんの「ありがとう」が、音の餌になった。


 後に残ったのは、レジに落ちたボールペンの、乾いた音だけ。


 半年間、たった一度も名前を呼ばなかった。次に来たら、今度こそ「ありがとう」と言おう。そんな日は、もう来ない。間に合わなかった。また、間に合わなかった。


 顔も名前も知らないと思っていた。けれど、知っていた。この街は、そういう小さな顔の集まりで、できていた。その一つひとつが、声も上げられないまま消えていく。世界が少しずつ、音ののっぺりとした塊になっていく。


 凛はこらえきれず、叫びそうになった。だが――声を出せば、自分も終わりだとわかっていた。だから口を固く結んで、ただ歩いた。涙だけが頬を流れた。


 父・正臣が望んだ永遠。すべてを記録し、すべてを保存する女神の箱。それは、世界を空にすることで完成しようとしていた。


 凛は走って部屋に戻った。逆位相。それだけが希望だった。美波が遺した鍵。美咲がくれた波形。それを使えばまだ止められる。


 ただ部屋に戻った凛を待っていたのは。


 もう声を失いかけた、母の姿だった。


 母が部屋にいた。


 いつ来たのか。どうやって入ったのか。分からなかった。だが母はそこに立っていた。半年前に見たときよりずっと薄く、輪郭がほどけかけて。


 「凛」と母は言った。その声に、もうあの唸りが混じっていた。母も同期に呑まれかけていた。


 「お母さん」凛は駆け寄った。「逃げて。あなたまで――」


 「いいの」母は微笑んだ。「私は、ずっとこの音と生きてきた。叔父さんの罪を知りながら、何もできなかった。美咲ちゃんを助けられなかった。せめてあなただけは、と思ったけど……それもできなかった。私はもういいの」


 母の指先が、音の粒になってほどけはじめた。


 「でもね凛。一つだけ、あなたに渡せるものがある」


 母は最後の力で、凛の手に何かを握らせた。古いICレコーダーだった。「これに入ってる。叔父さんがムネモシュネを作ったときの、基準の音。同期の中心になっている、いちばんおおもとの波形。これがないと逆位相は作れない。私が二十六年隠して持っていた」


 二十六年。母はこの小さな機械を、握りしめて生きてきたのだ。いつか娘のもとへ災いが来ることを知りながら。それを止める、たった一つの鍵を誰にも言えず抱え続けて。怯えながら凛を産み育て、遠ざけそして今すべてを、娘に託そうとしている。母の人生そのものが、この一台に込められていた。


 凛はレコーダーを握りしめた。これで揃った。五つのメディアの波形。そしてこの基準の音。逆位相を作るすべてが。


 「お母さん一緒に――」


 「凛」母はもうほとんどほどけながら言った。優しい声だった。あのカセットの、美咲の母のように。あるいはあらゆる母のように。


 「生まれてきてくれて、ありがとう。あなたは、装置のために生まれたんじゃない。私が、あなたに会いたくて産んだの。それだけは信じて」


 母の輪郭が光の粒になった。


 最後に母の声が低い唸りに溶ける、その寸前。


 凛の名を呼んだ。


 「凛。だいすきよ」


 そして母は音になった。


 部屋の唸りが、ほんの少し優しくなった気がした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ