第36話「美咲の聞いた音」
その瞬間凛の意識に、美咲の記憶が流れ込んできた。共闘者として心が、つながったからかもしれない。凛は見た。あの少女が、二十六年前に聞いていた音を。
*
わたしは柳沢美咲。
ピアノがすきだった。からだがよわくてそとで、あそべないぶんピアノだけは、だれにもまけなかった。おかあさんがひくと、よろこんでくれた。それがうれしかった。
おとうさんは、やさしかった。
けんきゅうでいそがしいひとだった。でもわたしがピアノをひくと、しごとのてをとめて、きいてくれた。へたなところでまちがえても、「いいんだよ、いまのところもういちど」って、わらってくれた。ねるまえには、ちいさなろくおんきで、わたしのひいたきょくを、ながしてくれた。「びじゅつかんのおんがくみたいだろう」って。わたしのおとが、せかいでいちばんきれいだって、おとうさんはいってくれた。
わたしはおとうさんに、ほめられたかった。だからねつがあっても、ゆびがいたくても、いっしょうけんめいひいた。おとうさんがろくおんきをむけると、もっとうまくひこうとした。おとうさんのうれしそうなかおが、すきだったから。
いま、おもう。あのときからもう、はじまっていたのかもしれない。おとうさんがすきだったのは、わたしじゃなくて、わたしのおとだったのかもしれない。でもそのころのわたしは、ただうれしかった。おとうさんがきいてくれることが。
びょうきがわかってから、おとうさんがかわった。
まいにちわたしのおとを、ろくおんするようになった。「びょうきがなおる、おまじないだよ」って。さいしょはしんじてた。おとうさんははかせだから。わたしをたすけてくれるって。
うでにまいにち、ちゅうしゃをされた。「おとがきれいに、なるおくすりだよ」って。いたかった。でもなおるならってがまんした。うでがあおくなってちゅうしゃのあとが、てんてんとふえていった。
でもちがった。
おとうさんがみていたのは、わたしじゃなかった。
わたしがせきをすると、おとうさんはうれしそうにメモをとった。わたしがよわってゆびが、うごかなくなると「いいぞ、ざつおんがへってきた」ってわらった。わたしのからだがしんでいくのが、おとうさんには、うれしいんだってきづいたとき。わたしははじめて、おとうさんがこわくなった。
ぼうおんしつにいれられた。
おとのないへや。
さいしょはしずかで、いいなっておもった。でもちがった。おとがないというのは、こんなにこわいことなんだ。じぶんのこころぞうのおとだけが、おおきくきこえる。だれもこない。おかあさんのこえも、きこえない。
わたしはピアノをひいた。たすけてっていみで。だれか、きいてって。
ピアノをひいているときだけ、おかあさんをおもいだせた。げんきだったころ。おかあさんがとなりで、うたってくれた。わたしがひいて、おかあさんがうたう。それがいちばん、すきなじかんだった。
だからくらいへやで、ひとりでもピアノをひいた。ひいていれば、おかあさんがきいてくれているきがした。
でも、ぼうおんしつは、おとをぜんぶすいこんで、そとにださない。
わたしのたすけては、どこにもとどかなかった。おかあさんにも、とどかなかった。
くらいへやのなかで、わたしはよくゆめをみた。たいいんしたあとの、ゆめ。あのはいいろのへやにつれてこられたひ、まだしんじていた、ぜんぶのゆめ。
でも、そのゆめは、ひとつずつきえていった。
からだがうごかなくなるたびに。こえがでなくなるたびに。さいごには、ゆめをみることもできなくなった。
のこったのは、おとうさんのこえだけ。
おとうさんはいった。「もうすぐおまえは、えいえんになる。おとになって、ずっとここにいられる」
えいえんに、ひとりで。このおとのないへやに。
それが、おとうさんのくれたあいだった。
わたしは、しぬのがこわかったんじゃない。わすれられるのが、こわかったんじゃない。
だれにもきいてもらえないまま、おとになって、えいえんになることが、こわかった。
*
凛は涙を流していた。
美咲が二十六年、たった一人で無響の闇のなかで聞いてきた音。それは、自分の心臓の音だけだった。誰にも届かないたすけて、を弾きつづけて。
「美咲ちゃん」凛は波形の少女に語りかけた。「もうひとりじゃないよ。私が聞いた。あなたのたすけてを、ちゃんと聞いたから」
影がかすかに震えた。二十六年ではじめて、誰かに届いたのだ。彼女の声が。
もう迷いはなかった。この子をこの音の檻から出す。たとえどんな代償を払っても。




