第35話「無音のはじまり」
美咲と心が触れた瞬間、凛の意識に、流れ込んできたものがあった。
美咲の、いちばん古い記憶。すべてが、はじまった日。一九九九年の、冬。凛は、その日を、美咲の目で、見ていた。
*
あさ、めがさめると、てんじょうが、しろかった。
びょういんの、てんじょう。ずっとみてるから、しみのかたちも、ぜんぶおぼえた。あれは、うさぎ。あれは、こわれたおうかん。あれは、おかあさんのよこがお。まいあさ、ひとつずつ、なまえをつけていく。そうすると、すこしだけ、ひとりじゃないきがする。
きょうは、なんのひだっけ。
あ、そうだ。きょうは、おとうさんが、わたしを、「あたらしいおへや」につれていってくれるひ。
おとうさんは、けんきゅうしゃ。むずかしいおしごとをしている。よくわからないけれど、おとのおしごとなんだって。「みさきのために、すごいへやをつくったんだ」って、こないだ、うれしそうにいっていた。「あそこなら、みさきのおとが、ずっとのこる」って。
おとが、のこる。
よくわからないけれど、わたしのピアノが、きえないで、ずっとのこるってことかな。だったら、うれしい。だって、わたしのゆびは、だんだん、おもくなってきているから。このごろ、おもうようにうごかない。せんせいに、なれるのかな。なれなかったら、どうしよう。
でも、おとがのこるなら。
いつか、せんせいになれなくても。わたしのひいたおとを、だれかが、きいてくれるかもしれない。
くるまにのって、しらないたてものに、ついた。
ちかに、おりていく。どんどん、ふかくなる。エレベーターのなかで、おとうさんは、ずっとわたしのてをにぎっていた。あたたかかった。おとうさんのて。
「みさき」と、おとうさんがいった。「きょうから、ここが、おまえのおうちだ」
へんなの。びょういんじゃないんだ。
とびらがひらくと、はいいろのへやだった。
かべじゅうに、とがったものが、ならんでいる。さんかくの、やまみたいなのが、すきまなく。へんなかたち。さわってみたら、やわらかかった。すこし、ちくちくする。
まんなかに、ピアノがあった。
アップライトの、ピアノ。びょういんのは、ちいさいでんしピアノだったのに。これは、ほんもの。こげちゃいろの、きがつかってある。わたしは、おもわず、かけよった。あしが、ふらついたけれど。
「ひいても、いい?」
おとうさんは、うなずいた。なにか、ちいさいきかいを、ポケットから、とりだして。スイッチを、いれた。
わたしは、いすにすわって、けんばんに、ゆびをおいた。
ひいた。
きよしこのよる。おかあさんが、いちばんすきなきょく。
……あれ。
おかしい。おとが、へん。
ひいているのに、おとが、すぐに、きえる。へやのなかに、ひろがらない。いつもなら、おとが、こだまして、しばらく、のこるのに。ここでは、ゆびをはなしたとたん、おとが、すっと、すいこまれていく。
なんだか、こわい。
でも、わたしは、ひきつづけた。だって、おとうさんが、きいているから。ポケットのきかいも、きいているから。これが、のこるなら。きえないなら。
ひきおわって、おとうさんを、みた。
ほめてくれるかな。
おとうさんは、きかいのはりを、じっと、みていた。わたしのかおじゃなくて。はりを。
「もういちど」と、おとうさんはいった。「こんどは、もっと、つよく」
うん、と、わたしはうなずいた。
もういちど、ひいた。つよく。ゆびが、いたくなるくらい。おとうさんが、ほめてくれるように。
なんかいも、ひいた。
どれくらい、ひいただろう。ゆびが、しびれてきた。あせが、でてきた。むねが、くるしい。でも、やすませてとは、いえなかった。おとうさんが、まだ、きいているから。
「おとうさん」と、わたしはいった。「のど、かわいた」
おとうさんは、こたえなかった。きかいを、いじっていた。
「おとうさん。おかあさんは?」
こたえない。
「おかあさんに、あいたい」
おとうさんは、やっと、わたしをみた。やさしい、かおだった。いつもの、おとうさん。
「みさき」と、おとうさんはいった。「もうすこしだ。もうすこしで、おまえは、ずっと、ここにいられる。さみしくない。いたくない。かなしくない。えいえんに、このおとのなかに」
えいえん。
よく、わからなかった。でも、おとうさんが、うれしそうだから。きっと、いいことなんだ。
わたしは、また、けんばんに、ゆびをおいた。
ひきながら、おもった。
はやく、おうちにかえって。おかあさんに、きいてもらいたいな。「きょう、おおきなピアノ、ひいたよ」って。「すごく、じょうずだったよ」って、いってもらいたいな。
たいいんしたら。げんきになったら。
おかあさんと、おおきなピアノのある、おうちにすんで。クリスマスには、ケーキをたべて。ちいさい子に、ピアノをおしえる、せんせいになって。
そして、いつか。
わたしのおとを、だれかが、きいてくれる。
なまえもしらない、だれかが。とおい、みらいで。
そのひとが、わたしのおとを、きいて。「ああ、このこは、ここにいたんだ」って、おもってくれる。それだけで、いい。
だから、わたしは、ひきつづけた。
はいいろのへやで。だれにも、きこえない、おとを。
しろい、ワンピースの、すそをにぎって。ゆびが、うごかなくなる、そのひまで。
ひいて。
ひいて。
ひいて。
いつか、だれかが、きいてくれると、しんじて。
*
凛は、息を呑んだ。
頬が、濡れていた。いつのまにか、泣いていた。
今のは。あの少女が――美咲が、あの防音室に、連れてこられた、最初の日。何も知らずに、ただ、父に褒められたくて、ピアノを弾いた、あの日。
そして凛は、悟ってしまった。あの日、美咲が「いつか、だれかが、きいてくれる」と信じて弾いた音。それを、二十六年後に、再生したのが――自分だったのだと。あの呪いのVHS。あの無音のピアノ。あれは、この日の、記録だったのだ。
美咲の願いは、叶っていた。最悪の形で。たすけて、と弾いた音は、二十六年かけて、凛のもとへ届いた。届いて、凛を、ここまで連れてきた。




