表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
35/45

第35話「無音のはじまり」

 美咲と心が触れた瞬間、凛の意識に、流れ込んできたものがあった。


 美咲の、いちばん古い記憶。すべてが、はじまった日。一九九九年の、冬。凛は、その日を、美咲の目で、見ていた。


 *


 あさ、めがさめると、てんじょうが、しろかった。


 びょういんの、てんじょう。ずっとみてるから、しみのかたちも、ぜんぶおぼえた。あれは、うさぎ。あれは、こわれたおうかん。あれは、おかあさんのよこがお。まいあさ、ひとつずつ、なまえをつけていく。そうすると、すこしだけ、ひとりじゃないきがする。


 きょうは、なんのひだっけ。


 あ、そうだ。きょうは、おとうさんが、わたしを、「あたらしいおへや」につれていってくれるひ。


 おとうさんは、けんきゅうしゃ。むずかしいおしごとをしている。よくわからないけれど、おとのおしごとなんだって。「みさきのために、すごいへやをつくったんだ」って、こないだ、うれしそうにいっていた。「あそこなら、みさきのおとが、ずっとのこる」って。


 おとが、のこる。


 よくわからないけれど、わたしのピアノが、きえないで、ずっとのこるってことかな。だったら、うれしい。だって、わたしのゆびは、だんだん、おもくなってきているから。このごろ、おもうようにうごかない。せんせいに、なれるのかな。なれなかったら、どうしよう。


 でも、おとがのこるなら。


 いつか、せんせいになれなくても。わたしのひいたおとを、だれかが、きいてくれるかもしれない。


 くるまにのって、しらないたてものに、ついた。


 ちかに、おりていく。どんどん、ふかくなる。エレベーターのなかで、おとうさんは、ずっとわたしのてをにぎっていた。あたたかかった。おとうさんのて。


 「みさき」と、おとうさんがいった。「きょうから、ここが、おまえのおうちだ」


 へんなの。びょういんじゃないんだ。


 とびらがひらくと、はいいろのへやだった。


 かべじゅうに、とがったものが、ならんでいる。さんかくの、やまみたいなのが、すきまなく。へんなかたち。さわってみたら、やわらかかった。すこし、ちくちくする。


 まんなかに、ピアノがあった。


 アップライトの、ピアノ。びょういんのは、ちいさいでんしピアノだったのに。これは、ほんもの。こげちゃいろの、きがつかってある。わたしは、おもわず、かけよった。あしが、ふらついたけれど。


 「ひいても、いい?」


 おとうさんは、うなずいた。なにか、ちいさいきかいを、ポケットから、とりだして。スイッチを、いれた。


 わたしは、いすにすわって、けんばんに、ゆびをおいた。


 ひいた。


 きよしこのよる。おかあさんが、いちばんすきなきょく。


 ……あれ。


 おかしい。おとが、へん。


 ひいているのに、おとが、すぐに、きえる。へやのなかに、ひろがらない。いつもなら、おとが、こだまして、しばらく、のこるのに。ここでは、ゆびをはなしたとたん、おとが、すっと、すいこまれていく。


 なんだか、こわい。


 でも、わたしは、ひきつづけた。だって、おとうさんが、きいているから。ポケットのきかいも、きいているから。これが、のこるなら。きえないなら。


 ひきおわって、おとうさんを、みた。


 ほめてくれるかな。


 おとうさんは、きかいのはりを、じっと、みていた。わたしのかおじゃなくて。はりを。


 「もういちど」と、おとうさんはいった。「こんどは、もっと、つよく」


 うん、と、わたしはうなずいた。


 もういちど、ひいた。つよく。ゆびが、いたくなるくらい。おとうさんが、ほめてくれるように。


 なんかいも、ひいた。


 どれくらい、ひいただろう。ゆびが、しびれてきた。あせが、でてきた。むねが、くるしい。でも、やすませてとは、いえなかった。おとうさんが、まだ、きいているから。


 「おとうさん」と、わたしはいった。「のど、かわいた」


 おとうさんは、こたえなかった。きかいを、いじっていた。


 「おとうさん。おかあさんは?」


 こたえない。


 「おかあさんに、あいたい」


 おとうさんは、やっと、わたしをみた。やさしい、かおだった。いつもの、おとうさん。


 「みさき」と、おとうさんはいった。「もうすこしだ。もうすこしで、おまえは、ずっと、ここにいられる。さみしくない。いたくない。かなしくない。えいえんに、このおとのなかに」


 えいえん。


 よく、わからなかった。でも、おとうさんが、うれしそうだから。きっと、いいことなんだ。


 わたしは、また、けんばんに、ゆびをおいた。


 ひきながら、おもった。


 はやく、おうちにかえって。おかあさんに、きいてもらいたいな。「きょう、おおきなピアノ、ひいたよ」って。「すごく、じょうずだったよ」って、いってもらいたいな。


 たいいんしたら。げんきになったら。


 おかあさんと、おおきなピアノのある、おうちにすんで。クリスマスには、ケーキをたべて。ちいさい子に、ピアノをおしえる、せんせいになって。


 そして、いつか。


 わたしのおとを、だれかが、きいてくれる。


 なまえもしらない、だれかが。とおい、みらいで。


 そのひとが、わたしのおとを、きいて。「ああ、このこは、ここにいたんだ」って、おもってくれる。それだけで、いい。


 だから、わたしは、ひきつづけた。


 はいいろのへやで。だれにも、きこえない、おとを。


 しろい、ワンピースの、すそをにぎって。ゆびが、うごかなくなる、そのひまで。


 ひいて。


 ひいて。


 ひいて。


 いつか、だれかが、きいてくれると、しんじて。


 *


 凛は、息を呑んだ。


 頬が、濡れていた。いつのまにか、泣いていた。


 今のは。あの少女が――美咲が、あの防音室に、連れてこられた、最初の日。何も知らずに、ただ、父に褒められたくて、ピアノを弾いた、あの日。


 そして凛は、悟ってしまった。あの日、美咲が「いつか、だれかが、きいてくれる」と信じて弾いた音。それを、二十六年後に、再生したのが――自分だったのだと。あの呪いのVHS。あの無音のピアノ。あれは、この日の、記録だったのだ。


 美咲の願いは、叶っていた。最悪の形で。たすけて、と弾いた音は、二十六年かけて、凛のもとへ届いた。届いて、凛を、ここまで連れてきた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ