第34話「いっしょに」
「りんちゃん」
声が聞こえた。フィルムからではなかった。波形の唇から。光にかざした、フィルムのその横顔から。
凛はフィルムを落としそうになった。
「やっときづいてくれた」と美咲の声が言った。「ずっとずっとよんでた。だれかきづいてって。おとうさんにとじこめられた、このおとにきづいてって」
凛の視界の隅に、灰色の影が立った。振り向くと消える。でも確かにいる。あの少女が。音になった美咲が。部屋の超低周波が凛の眼球を震わせ、見えるはずのないものを見せていた。
「美咲ちゃん」凛は呼んだ。はじめてその名を口にした。「あなたはずっとここにいたの。二十六年も。一人で」
「うん」影が言った。「くらくておとのないところ。むおんしつ。おとうさんは、ここがえいえんだっていった。でもえいえんって、こんなにさみしいんだね」
凛の喉が、ひりついた。父は娘を永遠にした。死から救ったつもりで。与えたのは、無音の闇に一人きりの永遠。救いではなく、もっとも残酷な孤独だった。
「りんちゃん」と美咲は言った。「おとうさんは、まだおわってない。わたしひとりじゃ、たりないから。りんちゃんをよんでる。りんちゃんもここにつれてきて、ふたりでひとつのおとになろうって。そうすれば、もっとおおきなおとになれるって。せかいじゅうのひとを、ひとつのおとに」
世界中の人を、一つの音に。
その言葉が、ゆっくりと、凛の芯まで落ちてきた。これは、一人の少女を保存する装置じゃない。すべての意識を一つの定在波に呑み込んで、世界を、一つの巨大な音に変える装置。美咲は、その最初の一音。そして凛は――それを完成させる、最後の一音。
「だから」美咲の声が震えた。さみしさと恐怖と、そして優しさで。
「りんちゃんはにげて。わたしみたいにならないで。おとになっちゃだめ」
影が凛に向かって手を伸ばした。けれどその手は凛に触れる前に止まった。連れていくためではなく、押し返すために。
二十六年、誰かに気づいてほしかった少女は。やっと見つけたたった一人の理解者を、逃がそうとしていた。
その瞬間凛の胸に、よみがえったものがあった。
美月。半年前死んだ親友。あの子も最後の留守電で、言っていた。「ひとりで抱えこむなよ。あたしが聞くから」と。なのに凛はその声に、間に合わなかった。美月が何を抱えていたのか。あの最後の電話のあと、どんな夜を過ごしたのか。凛は何も知らない。聞いてあげられなかった。気づいてあげられなかった。
ずっと悔やんでいた。もしあのとき電話に出ていたら。もしもっと美月の声に、耳を澄ませていたら。
そして今目の前に二十六年、誰にも気づいてもらえなかった、もう一人の少女がいる。たすけてを、ずっと弾きつづけていた少女が。その子が自分を、逃がそうとしている。
同じ後悔を二度はしない。
凛は首を横に振った。
「逃げない」と凛は言った。「あなたをここに置いて、逃げたりしない」
影が揺れた。戸惑うように。
「美咲ちゃん。あなたは二十六年たった一人で、気づいてもらうのを待ってた。今度は私があなたを、ここから出す番。一緒にお父さんの音を止めよう」
長い沈黙があった。無響の底のような沈黙。
やがて影がゆっくりと頷いた。はじめて、逃げるのでも諦めるのでもなく。
「……うん」と美咲は言った。か細いけれど二十六年で初めて、前を向いた声だった。「わたしおとうさんの、おとのありかをしってる。なかからおしえてあげる」
被害者だった少女が、共に戦う者になろうとしていた。




