第33話「先に来る音」
映写機はやはりあの店にあった。
老店主は、凛が缶を抱えて入ってくるのを見ると、奥から古い八ミリの映写機を出してきた。今度は何も言わなかった。ただ凛を見るその目に、哀れみのようなものがあった。これで終わりだ、と知っているような。
代金を渡すとき店主は、ぽつりと言った。「昔この店に、同じようにメディアを買い集めにくる女の人が、いてね」しわがれた声だった。「あの人も最後は、これと同じ八ミリを買っていった。……ちょうどお腹に、子どもがいる頃だったか。それきり二度と来なかった」
お腹に子ども。凛の指先が冷たくなった。それでもそれが誰のことか、訊けなかった。二十六年前まだ生まれる前の自分を宿して、この店で、必死に記録を追っていた人。母だ。母は凛を産む前から、この呪いとたった一人で闘っていたのだ。
店主は背を向け、古いラジオの埃を、布で拭いはじめた。それきり何も言わないつもりかと思ったとき、ぽつりと続けた。
「わたしもね。昔、女房の声を、テープに録っとったんだ。病気でね、もう長くないと言われて。声だけでも残しておきたくて」
布を動かす手は止まらなかった。
「だがね。死んだあと、一度も再生できなかったよ。怖くてね。聞けば、女房がそこにいる気がする。でも、いないんだ。録ったものは、もう、あの人じゃない。……頭ではわかっとる。わかっとるのに、捨てられん。今でも、簞笥の奥にある。聞けもせんのに」
店主は布を置いた。
「こういう機械を売っとると、あんたみたいな客が、ときどき来る。再生できんものを、後生大事に抱えた連中が。追い返せばいいんだ。本当は。でも、できんのだよ。わたしも、同じだから」
店主はようやく顔を上げ、凛を見た。
「あんたのそれは、聞かんほうがいい。だが、聞かずにはおれんのだろう。みんな、そうだった」
店主は二十六年、この街で、再生できないものを抱えた人間ばかりを見てきたのかもしれない。だから知っている。これがどう終わるのかを。
部屋に戻る。凛は白い壁に向けて映写機を据えた。
部屋には誰もいなかった。美波はもう凛を忘れかけている。母とはまだ連絡が取れない。世界でたった一人、この最後のフィルムと向き合っている。VHSを初めて観た、あの夜と同じ。でもあのときと違う。あのときの凛は何も知らなかった。今の凛は知っている。これを観れば自分が、最後の一音になることを。観ることが自らの消滅への、引き金になることを。
それでも手を止めなかった。
フィルムをリールにかけ、慎重に通していく。やったことはないのに、手が勝手に動いた。まるで誰かが教えているように。指が自分の意志とは無関係に、正しい順序でフィルムを送り歯車に噛ませ、巻き取りリールに留めていく。自分の体が自分のものでない。二十六年前からこの手順を、知っていたかのように。あるいは――この体が、最初からこの瞬間のために、設計されていたかのように。
その感覚が何より恐ろしかった。
電源を入れる。カラカラとリールが回りはじめた。ランプが灯り、壁に四角い光が映る。
そして――音が聞こえた。
映像より先に。
まだ壁には何も映っていない。光の四角だけ。なのにスピーカーから、声が流れた。少女の声。
「おかあさんみて。わたしまだひけるよ」
美咲の声だった。明るい元気なまだ病が進む前の。
そして一拍遅れて。
壁に映像が映った。さっきの声と同じ場面。少女がピアノを弾いている。明るいリビング。窓から差す光。
音が先。映像が後。
凛は混乱した。なぜ音が先に来るのか。
あとで調べて知った。この八ミリの方式では、音声は映像より十八コマ先に記録される。フィルムの構造上の必然。音が先に来て映像が追いかける。
けれどそれはただの技術の話ではなかった。
凛が観ていると――フィルムの中の美咲がこれから起きることを、声で先に告げるのだ。
「あおかあさんころんじゃう」
声が言った一拍後。映像の中で、若い女性が――美咲の母が躓いて転んだ。
声が未来を知っていた。
いや。フィルムが、未来を先に鳴らしていた。凛はこれから起きることを音で先に聞かされ、それを止められないまま、映像で見せられる。
フィルムが進むにつれ、映像は変わっていった。
明るいリビング。元気な美咲。それがだんだん暗くなる。病室。痩せていく少女。そして――あの防音室。VHSで観たあの無響の部屋。フィルムは、美咲の最期へと近づいていた。
その間ずっと音が先に来た。美咲の咳が先に聞こえ、映像で咳き込む。父の足音が先に聞こえ、映像で父が入ってくる。凛は未来を聞きながら、過去を見ていた。時間がねじれていた。
やがて防音室の場面になった。
美咲がピアノの前に座っている。VHSと同じ場面。だがフィルムには音があった。先に来る音が。
美咲が弾きはじめる前に。
その旋律が聞こえた。
全身が、こわばった。低く重いあの響き。部屋でずっと凛を追いかけてきた、あの残響。その元の旋律。美咲が防音室で弾いた最後の曲。それが十八コマ先に鳴り映像の中で、美咲の指がそれを追っていた。
凛は、ようやく分かった。あの残響はこれだったのだ。二十六年間無響の部屋に閉じ込められた、美咲の最後の旋律。出口を求めて、ずっと鳴り続けていた音。
美波の機材はもうなかった。けれど凛はフィルムを止め、一コマを光にかざした。縁に走る光学トラックの波形を見るために。逆位相を作るには、この波形が要る。
光にかざすと透明なフィルムの縁に、音の波が透けて見えた。
その波形を目でたどる。山と谷。うねり。脈打つ波。
その形が。
美咲の横顔になっていた。
フロッピーで見たあの横顔。音が像になる。今度はフィルムの上で。なだらかな額。落ちくぼんだ目。薄い唇。音の波が少女の顔を描いていた。
そしてその唇の波が動いた。
わずかに、しかし確かに上へ持ち上がる。まるでフィルムの中の少女が、息を吸ったように。止まっているはずの、ただの光の帯が。
凛の指先から、フィルムが滑り落ちそうになった。手が震えていた。光にかざしたまま、目を逸らせない。波形の唇がもう一度、ゆっくりと形を変える。
凛に向かって。




