第32話「逆位相」
ぎゃくいそう。逆位相。
凛はそのひらがなの一行を、何度も見返した。美波が忘れていく頭のいちばん奥から、最後に絞り出した言葉。音響工学を学んでいた彼女が、凛に遺したたった一つの鍵。
凛は調べた。逆位相。
ある音に、山と谷をちょうど反対にした音をぶつけると、二つの波は打ち消し合って消える。ノイズキャンセリングが騒音を消すのと、同じ原理。説明はそれだけだった。理屈は、半分も呑み込めない。それでも凛の指は、検索結果の上で止まっていた。
ムネモシュネは、音でできている。美咲も、母の声も、父の声も、凛を蝕む唸りも、すべて音。なら、ぴったり反対の音をぶつければ――。
凛はその先を、言葉にできなかった。できるという確信はどこにもない。ただ美波が、忘れていく頭の底から最後にこの一語を寄越したのなら。意味があるはずだった。音でできたものは、きっと音でしか消せない。
反対の波を作るには、ムネモシュネの音を、寸分たがわず捉えなければならない。その元の波形は――まだ凛の手元になかった。
再生したのは四つ。VHS、カセット、MD、フロッピー。母は言っていた。記録は五つあると。
最後のひとつが来なければ、逆位相は作れない。
凛は郵便受けを見た。
まだ何も来ていなかった。
しかしもうすぐだ。装置は、同期の完成に近づいている。最後のメディアは必ず届く。凛を最後の一音にするために。
最後のメディアは、三日後に届いた。
それはこれまでとは違っていた。郵便受けではなかった。凛が朝目を覚ますと、枕元に置かれていた。鍵のかかった部屋の中に。誰かが入った形跡もないのに。
平たい金属の缶だった。直径二十センチほど。蓋にテープで留められたラベル。父の几帳面な字で。
『記録 No.0 起点』
No.0。起点。
これまでの記録が、No.7という終点から数字を減らしてきたのに対して、これはゼロ。すべてのはじまり。番号のいちばん奥。
凛は缶を開けた。中には、リールに巻かれた細いフィルムが入っていた。茶色く透き通った、セルロイドの帯。ところどころ、画像が小さく焼きついている。
「……八ミリフィルムだ」
凛はつぶやいた。VHSよりずっと古い。映写機がなければ観られない。だがもうあの店に行く気にはなれなかった。あの店主は、きっとまた用意して待っている。最初からすべてを知っていたように。
凛はフィルムを缶ごと抱えて、考えた。
これを観れば、ムネモシュネの全体が見える。最後の波形が手に入る。逆位相を作れるかもしれない。
けれど母は言っていた。これを最後まで再生したら、同期が完成すると。凛が、最後の一音になると。
観れば武器が手に入る。同じ手で、自分が消える。
凛は缶を抱えたまま、長いあいだ動けなかった。
半年前の自分ならと凛は思った。半年前美月を喪って、何もかもが薄かった頃の自分なら。きっと迷わず観ていただろう。どうせ薄い世界だ。消えても惜しくないと。
だが今は違う。
あのカフェの雨の音。美波の笑顔。果たせていない約束。母の二十六年。聞いてあげられなかった、美月の最後の声。失うには惜しいものが、いつのまにか増えていた。生きたいと思う自分が、確かにいた。
それでも――凛は缶の蓋に、手をかけた。
惜しいものが増えたからこそ。守りたいものができたからこそ。逃げてはいけないと思った。美咲を。世界を。そして自分を覚えていてくれる、たった一人の後輩を。守るために。
凛はフィルムを光にかざした。
細い帯の端に――これまでのメディアにはなかったものが、あった。
透明なフィルムの縁に、もう一本細い帯が走っていた。音の波形が刻まれた光の帯。光を当てると、その波が透けて見える。
目に見える音だった。




