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第31話「音になりたい」

 美波が消えていく。


 母もいつか消えるのだろう。美月はもういない。自分が関わる人は、みんないなくなる。あるいは自分のことを、忘れていく。残るのはいつも自分ひとり。薄い膜の向こうの音のない世界に、取り残される自分ひとり。


 凛は暗い天井を見上げて考えた。


 いっそ音になってしまえば。


 その考えが、ふいに、するりと滑り込んできた。父――柳沢正臣が、美咲に囁いた言葉。痛みもない。さみしさもない。完璧な、永遠の、安らぎ。あれは狂気だと思った。おぞましいと思った。


 でも、今は。


 今は、それが、優しい言葉に聞こえた。


 音になれば、もう、誰かを失わなくていい。


 その声は、どこか、美月の声に似ていた。やわらかくて、少し笑っていて。凛、おいで、と。こっちはあったかいよ、と。


 美咲も。母も。美月も。消えていった人たちと、ひとつの音のなかで、ずっといっしょにいられる。二度と、ひとりにならない。


 凛は目を閉じた。あの低い唸りが、部屋に満ちている。呼んでいる。おいで、と。ここへ、おいで、と。


 唸りは、いつのまにか、やわらかな旋律になっていた。美咲のピアノ。母の鼻歌。美月の笑い声。聴いているだけで、体の力が抜けていく。半年間、ずっと肩に入っていた力が。もう、頑張らなくていい。もう、誰かを失う痛みに、耐えなくていい。


 まどろみのような、甘さだった。眠りに落ちる、その手前。抗うより、身を任せるほうが、ずっと楽だった。


 手を伸ばせば、楽になれる。


 指が、わずかに動いた。


 ――けれど。


 まぶたの裏に、ひとつの光景が浮かんだ。あのカフェ。目を閉じた凛に、美波が言った。「先輩に世界の音を、もういちど聴かせたいから」。豆を挽く音。雨。ジャズ。あのいい音。半年ぶりに、世界が色を取り戻した、あの瞬間。


 あの子は私に、世界の音をもう一度、聴かせたいと言った。


 音になることは世界の音を、二度と聴かないこと。あの約束を永遠に手放すこと。


 凛の伸ばしかけた指が止まった。


 まだ聴いていない。あの子がいちばんいいと言った、あの店のいちばんいい時間の音を。まだ聴いていないのに。


 凛はゆっくりと手を下ろした。目を開けた。涙がこめかみを伝って、枕に落ちた。


 音にはなりたくない。生きてもう一度、あの音を聴きたい。


 いや――と凛は思った。もっと、みっともない本音が、腹の底にあった。


 美波を、返してほしい。私の美波を。あの子が私のことを忘れていくのが、たまらなく嫌だ。世界を救うとか、美咲を助けるとか、そんな立派なことじゃない。私はただ、もう一度あの子と、あのカフェで、くだらない話がしたい。プリンをふたつ買って、半分こして。「先輩、ちゃんと食べてます?」って、また呆れた顔で言われたい。あの子の隣で、生きていたい。


 わがままだ、と思う。美咲だって、ハルだって、消えていった大勢の誰かだって、きっとそう願ったのに。叶わなかったのに。それでも凛は、自分のこの欲を、手放したくなかった。きれいごとじゃない。誰かに譲るつもりもない。美波は、私の友達だ。返してもらう。誰にも――あの装置にも、渡さない。


 半年ぶりに凛が抱いたのは、世界への愛なんて上等なものではなかった。たった一人の後輩を独り占めしたいという、子どもじみた、泥くさい、生への執着だった。


 半年前美月が死んでから、凛はずっと半分死んでいた。生きてはいたけれど生きたいとは、思っていなかった。ただ惰性で息をして、ただ世界の膜の向こうを眺めていた。あのまま音になっていたら。それは死ではなく、ずっと続いてきた生ぬるい死の、完成だったかもしれない。


 でも今は違う。


 聴きたい音がある。果たしたい約束がある。会いたい人がいる。守りたい人がいる。生きたいとはっきり思う。この当たり前の願いを、取り戻すのに半年もかかった。あの後輩がくれたものだった。


 だったら音になんて、なってやるものか。


 凛は起き上がり美波に返信した。「ありがとう。でももう無理しないで。あなたが忘れても、私はあなたを覚えてる。それでいいから」


 既読はついた。でも返事は来なかった。


 その代わり、夜中にもう一通だけ届いた。


 たった一行。


 「ぎゃくいそう」

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