第30話「忘れられていく」
美波が凛を忘れていくのは、ゆっくりとだった。
あのカフェで、小指を絡めて約束したことさえ、美波はもう思い出せなくなっていた。「先輩とどこかに行く約束、してましたっけ……」と申し訳なさそうに、首をかしげる。その約束こそがゆうべ凛を、同期から引き戻したというのに。
最初に消えたのは、名前だった。「佐々木先輩」が出てこなくなる。「ええと、先輩」と言い淀む回数が増えた。次に、約束。一緒に解析すると決めた時間に、美波は来なかった。あとで連絡すると「すみません、何の話でしたっけ」と返ってきた。それから、二人で過ごした時間。カフェのことも、プリンふたつの夜のことも、順に抜け落ちていった。
削られ方には、順番があるみたいだった。新しい記憶から、古い記憶へ。出来事の細部から、その芯へ。まるで、いちばん大切なものを最後まで残すように――あるいは、いちばん最後にそれを奪うために。
凛は美波のノートパソコンに、二人で集めたデータが残っているのを知っていた。VHS、カセット、MD、フロッピー。その解析の記録。けれど美波の画面から、それらは一つ、また一つと消えていった。ファイルが壊れるのではない。美波が自分でそれを見ても、「これ、なんだっけ」と首をかしげるようになる。
記録が、人の頭の中から消されていく。同期に近づくほど、凛に関わるすべてが、世界から削られていく。凛という存在が、少しずつ、編集でカットされていくように。
決定的だったのは、ある午後のことだった。
凛がいつものように美波に会いに、大学のラウンジへ行った。美波はいた。だが凛が近づくと、美波はきょとんとした顔でこちらを見た。
「……えっとどなたか、でしたっけ?」
その一言が凛の胸を刺し貫いた。
ほんの数日前まで「先輩先輩」となついてくれた子が。一緒に徹夜で解析をした子が。カフェで小指を絡めた子が。今まっさらな目で凛を見ている。知らない人を見る目で。
「美波」と凛はかろうじて言った。「私だよ。佐々木凛」
美波はしばらく、凛の顔を見つめた。それから、申し訳なさそうに笑った。「ごめんなさい。なんか……知ってる気が、するんですけど。思い出せなくて」
知ってる気がするけど、思い出せない。
その言葉がいちばんつらかった。完全に忘れられたのなら、まだ諦めもつく。それでも美波の中に凛の輪郭だけが、かろうじて残っている。その輪郭が今まさに、消えようとしている。その瞬間に、凛は立ち会ってしまった。
もし私のこと忘れたら、けっこう傷つきますからね。
あのカフェで、小指を絡めて、美波はそう言った。傷つくのは自分のほうだと、信じて疑わない顔で。けれど今、こうして凛を忘れていくその子は、自分が傷つけていることにすら、気づいていない。凛は「忘れない」と言った。美波のことは、忘れないと。守れたはずのその約束を、美波のほうが先に、奪われてしまった。
立ち去ろうとした凛の背に、美波の声がかかった。
「あの……変なこと、訊いていいですか」美波は自分の言葉に戸惑うように、眉を寄せていた。「わたし、だれかに、音を取り戻してあげるって……約束した気がするんです。だれだか、わからないんですけど。すごく、大事な約束だった気がして。それだけが、ずっと、ひっかかってて」
凛は振り返れなかった。
名前も顔も忘れて。それでも美波は、たった一つだけ手放していなかった。凛の失った世界の音を、取り戻す。あのカフェで交わした、彼女の信条そのものの約束を。記憶が砂のようにこぼれていくなかで、自分がいちばん大切にしていたものの形だけが、最後に残っていた。
「……ううん」凛はようやく言った。「なんでもない。その約束は、もう、果たしてくれたから」
嘘だった。まだ、何も果たされていない。あのカフェにも、二人で行けていない。それでも凛は、そう言うしかなかった。
凛は美波に会うのをやめようと思った。これ以上関われば、美波の頭から、凛だけでなく美波自身の記憶まで削られてしまう気がした。
だが美波は最後の力で抗っていた。
ある日凛のスマートフォンに、美波からメッセージが届いた。文面はめちゃくちゃだった。
「せんぱい わたし あなたのなまえ おもいだせない でも たいせつなひと だってことは わかる わすれたくない ノートに かいておきます」
凛はその震えるような文字を見て、涙が出た。半年ぶりの涙だった。理由のない装置の涙ではない。自分の意志で流す涙だった。
美波は忘れていく自分と闘っていた。凛を覚えておくために。ノートに書きとめてでも。名前はもう思い出せない。それでも「大切な人」だったということだけは、手放すまいと。記憶を削られながら、そのいちばん芯の部分だけを、両手で握りしめるように。
半年前凛は美月を喪った。世界から音が引いた。誰の声も届かなくなった。もう二度と、誰とも深く関わらない。そう決めて生きてきた。関わればいつかまた喪うから。
なのにこの後輩は。ほんの数日関わっただけのこの子は。自分の記憶が削られてまで、凛を忘れまいとしている。
関わらなければよかった、とは思えなかった。
それでもその夜。一人になった部屋で、凛の心はいちばん暗いところまで、沈んでいった。
そして、その暗がりの底で。
何かが、そっと囁きかけてくるのを、凛は感じた。甘く、やさしく、抗いがたい何かが。それがこの数日で、いちばん危険な誘いだということに――このときの凛は、まだ気づいていなかった。




