第29話「呑まれる」
その夜、凛はひとりだった。
美波を帰らせた。これ以上巻き込めない。一人でテープと向き合う。そう決めて。
美波は「先輩を一人にできません」と最後まで渋った。けれど凛は無理やり帰した。あの子がこれ以上削られていくのを、見ていられなかった。あの子の頭から凛の記憶が、消えていくのを。守るためには、遠ざけるしかなかった。
しかし遠ざければ、凛はまたひとりになる。半年前美月を喪ったあとの、あの世界に一人きりの感覚が、戻ってくる。守ることと孤独になることは同じ、ひとつのことだった。誰かを大切に思うほど、その人を自分から、引き剝がさなければならない。それがこの呪いのいちばん、むごいところだった。
部屋の明かりをすべて消した。闇のなかで目を閉じる。あの超低周波が、部屋に満ちているのが肌で分かった。骨の芯が低く震える。
眠ろうとした。ただ眠りと覚醒の境目で。
音が聞こえはじめた。
美咲のピアノだった。あの低く重い旋律。だが今夜は怖くなかった。むしろ――心地よかった。子守唄のように凛の意識を、やさしく揺らす。旋律に声が重なる。一人ではない。母の声。美月の声。聞き分けられない、たくさんのなつかしい声が凛を呼んでいる。
そして、あの囁きが、また耳元で聞こえた。最初の夜と同じ声。けれど、言葉が、変わっていた。
「もう半分、記録されたよ」
あと半分。そう告げられて、凛の体から、力が抜けていく。
『こっちへおいで』
『もうつかれたでしょう』
『おとになればなにも、かんじなくてすむよ』
凛の意識がふわりと浮いた。体の輪郭が溶けていく。
指先からだった。手の先が空気に、にじむようにほどけていく。痛みはない。むしろ心地よかった。長いあいだぎゅっと握りしめていた拳を、ようやく開くような。体という重たい入れ物から、自分という音がするすると、抜け出していく感覚。境界が消える。自分と世界のあいだの壁が。
半年間味のしない、音の遠い薄い膜の向こうの世界で、ずっと疲れていた。美月を失ってひとりぼっちで。もういいのかもしれない。音になれば。痛みも孤独もぜんぶなくなる。美月にも会えるかもしれない。このやさしい声たちの、なかへ――
手を伸ばしかけた。声のするほうへ。
そのとき。
指先が机の上の何かに触れた。
冷たいプラスチック。カセットテープのケースだった。「お母さんより」と書かれたあの。指が触れた瞬間、ふいに別の記憶がよみがえった。あのカフェ。豆を挽く音。雨。美波の笑顔。「これ全部終わったら、また来ましょう」。絡めた小指のあたたかさ。
――まだ約束を果たしていない。
凛の意識がびくりと戻った。溶けかけた輪郭が、ぎゅっと引き締まる。だめだ。まだいけない。あの子ともう一度、あのカフェに行くと約束した。あの子は私を覚えていようと、必死に闘っている。なのに私が先に、音になってどうする。
凛は目を見開いた。
全身が汗で濡れていた。心臓が激しく打っている。今自分は半分呑まれていた。あと少し手を伸ばしていたら。あのやさしい声に応えていたら。もう戻れなかった。
恐ろしいのはあれが、苦痛ではなかったことだ。むしろ救いのように感じた。それがいちばん恐ろしかった。ムネモシュネは無理やり、人を呑むのではない。疲れた心にそっと囁くのだ。楽になれと。
凛はカセットを握りしめた。美波との約束だけが、自分をこの世につなぎとめていた。




