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第28話「わたしのノート」

 ――これはわたしのおぼえがき。


 最近、わたし、ものわすれがひどい。


 音響工学の課題の提出日を、忘れた。バイトのシフトも、忘れた。それくらいなら、よくあること。


 でも、こないだ。もっとこわいことがあった。


 スマホの連絡先に、知らない名前があった。「佐々木先輩」。何度もやりとりした履歴が、あるのに。わたし、この人のこと、思い出せない。


 でも、不思議なの。


 名前も、顔も、思い出せないのに。この人のことを思うと、胸があったかくなる。すごく、すごく、大切な人だった。それだけが、芯みたいに残ってる。


 だから書いておく。忘れてしまう前に。このノートに、ぜんぶ。


 佐々木凛先輩。音響工学を手伝ってる。先輩の部屋で、変な音がする。VHS。カセット。MD。柳沢美咲っていう少女。ムネモシュネっていう、装置……書いていても、半分、意味がわからなくなってる。さっき書いたことを、もう、忘れてる。


 今日が何日なのかも、あやしい。きのう何をしたか、思い出せない。先週のことは、もっと。記憶が、砂みたいに、指のあいだからこぼれていく。すくっても、すくっても。


 こわい。


 でも、いちばんこわいのは。


 こわいということを、忘れていくこと。


 さっきまで何かにおびえていた気がするのに。何に、だっけ。もう、思い出せない。穏やかになっていく。それがこわい。穏やかになるって、消えていくってことだから。


 だから書く。こわいうちに。まだ、わたしが、わたしでいるうちに。


 たぶんこれ、わたしだけのことじゃない。先輩も、何かを奪われてる。だったら、わたしが覚えておかなきゃ。わたしが忘れても、このノートが覚えていられるように。


 最初は、音にしようとした。


 わたしのやり方で。スマホに、吹き込んだ。「わたしは美波。佐々木凛先輩のことを、覚えておく」って。何度も、何度も。声に出せば、残ると思ったから。音は、その場所の記憶を全部、保存できる。ずっと、そう信じてきたから。


 でも、だめだった。


 録った声を、あとで聞いても。「これ、だれの声?」って、思う。自分の声なのに。わたしが吹き込んだはずなのに。聞いても、何も、戻ってこない。音は残ってるのに、記憶は戻らない。


 わかってしまった。


 音は、その場所を保存できても。失われた記憶までは、連れ戻せない。わたしがずっと信じてたことは、半分、まちがってた。録っておけば大丈夫だなんて、嘘だった。録ることと、思い出すことは、ちがう。


 あの人――先輩のお父さん? ちがう、大叔父さん? も、たぶん、それをまちがえた。録れば残ると思って。でも、録ったものは、もう、その人じゃない。


 だから、音はあきらめた。


 でも、文字なら。


 文字は、声みたいに、聞き流せない。目で、追わなきゃいけない。一字ずつ。だから、書く。声じゃなくて、手で。すくってもこぼれる記憶を、紙に、押しつけるみたいに。これは、わたしの、外づけの記憶。


 ねえ、先輩。


 わたし、たぶん、もうすぐ、あなたのことを、完全に忘れます。


 でも、こわくない。


 だって、このノートが、あなたを覚えてるから。わたしが忘れた分まで。


 最後に、ひとつだけ。


 名前も思い出せない、あなたへ。


 あなたと過ごした時間は、楽しかったです。音の話を、こんなにちゃんと聞いてくれる人、はじめてだった。


 だから――どうか、あなたは、消えないで。


 わたしのことは、忘れてもいいから。


 あなたは、生きて。

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