第27話「美波の声」
電話を切ったあと、凛はしばらく動けなかった。
美波が心配そうに隣にいた。「先輩……大丈夫ですか」
その手には、コンビニの袋。さっき近くまで買い物に出ていたのだ。美波はいつものように、中身を取り出した。プリンが、ひとつ。
「あれ」と美波は袋の中をのぞき込んだ。「ひとつしか、買ってなかった。やだ、なんでだろ。いつもふたつ買うのに」
美波はきょとんとして、それからそのひとつを、凛のほうへ差し出した。「先輩、食べてください」
凛は受け取れなかった。
いつもふたつ。凛のぶんと、美波のぶん。あの徹夜の夜から、それは二人の小さな決まりごとになっていた。美波はそれを、忘れている。忘れたことにすら、気づいていない。たったひとつ足りないプリンが、凛にはひどく、恐ろしいものに見えた。
「先輩? どうかしました?」
美波の声に、凛は顔を上げた。そして気づいた。
美波の顔が少しぼやけて見える。いや顔だけではない。美波の声が――遠い。あの半年間の、感覚の鈍麻のように。美波の声だけが、薄い膜の向こうから聞こえる。
凛はぞっとした。装置が進んでいる。今度は美波を巻き込みはじめている。凛のいちばん近くにいる人を。
これまでとは逆だった。これまで忘れられ奪われ遠ざかっていくのは、いつも凛の側だった。世界が凛から遠ざかっていった。だが今度は――凛が美波を、失おうとしている。自分のせいで。自分に関わったせいで、この子が削られていく。
奪われる痛みは知っていた。半年間いやというほど。けれど自分のせいで、誰かが奪われていくのを見る痛みは、それとはまったく違う種類のものだった。もっと重くてもっと、逃げ場のない痛みだった。
「美波」と凛は言った。「あなた今日はもう帰って。これ以上私に関わったら、あなたも――」
「いやです」美波は即答した。「先輩を一人になんてしません。音のことで困ったら、いつでもって私言いましたよね。だから」
そのまっすぐさが、凛にはつらかった。この子は知らない。自分が、どれだけ危険な場所にいるのか。
そのとき、美波がふと首をかしげた。
「先輩。さっきから変なんですけど……私、先輩のこと、なんて呼んでましたっけ」
凛の背筋が凍った。
「……佐々木先輩でしょ」
「あそうだ。佐々木先輩」と美波は笑った。「やだな私。なんで忘れてたんだろ」
美波は笑っていた。けれど凛は笑えなかった。
たった今この子は半年間、毎日のように呼んでいたはずの名前を、一瞬忘れた。それも何かを思い出せないという、ありふれた物忘れの顔で。本人は何も、おかしいと思っていない。その無自覚さが、いちばん恐ろしかった。記憶は削られるとき、痛みを伴わない。だから本人は気づけない。気づいたときには、もう抜け落ちたあとなのだ。
美波の機材の針が、また揺れていた。部屋の超低周波が、強くなっている。そしてそれは、美波の記憶から、凛の名前を少しずつ削りはじめていた。
凛は思い出した。あのカフェで美波は言った。「先輩に世界の音を、もういちど聴かせたい」と。この子は凛の失った世界を、取り戻そうとしてくれた。なのにその見返りがこれなのか。凛に関わったせいで、この子自身が削られていく。
守りたかった人を、自分が巻き込んでいる。半年前美月を喪ったとき、もう二度と誰も失いたくないと思った。だから誰とも、関わらないようにしてきた。なのに――関わってしまった。そしてまた失おうとしている。今度は自分のせいで。
音が人から何かを奪っていく。まず感覚を。次に記憶を。
凛は悟った。次に美波が失うのは。
凛という存在そのもの。
この子の世界から、自分が消されていく。それが装置の次の一手だった。




