第26話「母の二十六年」
電話を切ったあとも、母の声が耳に残っていた。その声に滲んでいた、二十六年分の疲れと後悔。凛は目を閉じて、母がひとりで歩いてきた歳月を思った。
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真理子がすべてを失ったのは、十四の冬だった。
いとこの美咲が死んだ。叔父の正臣が後を追うように死んだ。残されたのはあの装置と、家族の無残な記録だけ。真理子はまだ子どもだった。何もできなかった。美咲のたすけて、を聞いていたのに。
大人になっても、それは消えなかった。結婚して佐々木の姓になっても。あの夏の無響室の記憶が、ふとした静けさのなかによみがえる。叔父が計器だけを見ていた目。美咲の細い腕の注射痕。
そして凛が生まれた。
産んだ瞬間、真理子は怖くてたまらなかった。この子が、柳沢の血を引いていることが。叔父が遺した言葉――「同じ血を持つ者が生まれたら、必ず来る」が呪いのように、頭を離れなかった。
だから遠ざけた。柳沢の家のことは何ひとつ、凛に教えなかった。普通の子として育てようとした。
だが凛は幼い頃から、ふつうの子とは違った。三つか四つの頃。真理子が子守唄を歌うと、凛は決まって泣きだした。あやそうとして歌うのに、火がついたように泣く。あるときようやくわかった。この子は真理子の歌の、その奥に潜む、何か別の音を――聞いているのだ。母の声に重なる、かすかな低い唸りを。真理子には聞こえない音を。
小学校に上がる頃には、それははっきりしていた。運動会のピストルの音で、凛は過呼吸を起こした。教室のざわめきで耳を塞いだ。冷蔵庫の前で「へんな音がする」と泣いた。誰にも聞こえない音を、凛だけが聞いていた。
真理子はそのたびに、血の気が引いた。叔父の言葉がよみがえる。「同じ血を持つ者が生まれたら、必ず来る」。この子は美咲と同じだ。人より深く音が響く子。あの忌まわしい共鳴特性を、受け継いでいる。
「あなたは聞きすぎるのよ」とついきつく言ってしまった。叱りたかったのではない。怯えていたのだ。この子もいつかと。きつい言葉のあとで、真理子はいつもひとりで泣いた。なぜこの子にこんな血を、継がせてしまったのか。守れるのか。この子だけは。
真理子はずっとあの装置を、監視していた。叔父の遺品のなかから、五つのメディアを回収した。VHS。カセット。MD。フロッピー。八ミリ。それらを誰の目にも触れないよう、封印した。これさえ世に出さなければ。凛のもとへ届かなければ。
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後に凛は母の遺品の中から、古い日記帳を見つけることになる。十四歳の真理子があの一九九九年に、つけていた日記だった。震えるけれどまだ幼さの残る字で、こう記されていた。
『十二月五日。今日は美咲ちゃんが笑った。ひさしぶりに。ピアノを弾いて笑った。よかった』
『十二月八日。叔父さんがなにか隠している。美咲ちゃんの部屋に、変な機械が増えていく。聞いても教えてくれない』
『十二月十日。叔父さんが美咲ちゃんに、テープを聞かせていた。低い変な音。美咲ちゃんは聞いたあと、ぐったりしていた。怖い』
『十二月十二日。怖い。美咲ちゃんが痩せていく。叔父さんはうれしそう。なにかがおかしい。誰か助けて。でも誰に言えばいいの』
日記はそこで、しばらく途切れていた。そして年が明けた、最後のページにたった一行。
『美咲ちゃんがいなくなった。わたしはなにもできなかった』
十四歳の少女が目の前で起きる狂気を誰にも言えず、止められずただ書きとめることしかできなかった。その無力さが二十六年、真理子を縛りつづけた。だからこそ彼女は決めたのだ。同じことを二度と繰り返さない。今度こそ守る。たとえ命に代えても。
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けれど数年前から、様子が変わりはじめた。封印した箱の奥で、メディアがひとりでに、かすかな音を立てるようになった。装置が、目を覚ましかけていた。柳沢の血を引く器――凛が、年を重ねて成熟するのを、待っていたかのように。
もう、抱え込んではいられない。真理子は賭けに出た。メディアを手放す。自分以外の、凛以外の、誰かのもとへ。アカウントを作り、フリマアプリに出品した。「これを再生できる人のところへ、届きますように」。本当は誰にも、再生してほしくなかった。ただ装置を、凛から少しでも遠くへ、引き離したかった。
それでも――何人もの手に渡り、そのたびに誰かが消えても、装置は満足しなかった。柳沢の血を求めていた。器でない者を呑んでは、テープはまた誰かの手を経て、めぐってくる。真理子は何度も回収しては、また手放した。終わらない賭けだった。
後に凛は、母の日記の片隅に、こんな記述を見つけることになる。
ある年の春。真理子は、フリマアプリで売れたVHSが無事に「再生できない誰か」のもとへ届いたことに、ひとまず胸をなでおろしていた。これでしばらくは、凛から遠ざけられる、と。けれど幾月か経ったころ。何気なく開いたニュースアプリの片隅で、彼女は小さな訃報を見た。若い女性が、自室で亡くなっているのが見つかった。死因不明。事件性なし。その住所が、自分がテープを送った宛先と、同じ町だった。
真理子は、その場で吐いた、と日記にはあった。手が震えて、しばらく文字が書けなかった、と。私が殺した。私が、この人を。けれど――それでも凛を守るためなら。私はまた、同じことをする。次の誰かに、送る。何度でも。地獄に堕ちるのは、私ひとりでいい。
そうやって母は、見知らぬ誰かの命と引き換えに、娘の時間を買い続けてきた。一人で。誰にも言えず。二十六年。
そして半年前。凛の親友が死んだ。凛の感覚が薄れはじめた。真理子は悟った。装置の同期が、ついに決定的な段階に入ったのだと。封印しても、手放しても、もう止まらない。器が、すぐそこにいるのだから。
もう止められない。
真理子にできたのは。せめて最後のメッセージを、残すことだけだった。「ごめんなさい。もう止められない」。そして自分の持っていた、いちばん大切な記録――叔父がムネモシュネを作ったときの、基準の音を握りしめて。娘のもとへ向かうこと。
二十六年たった一人で、この呪いと戦ってきた女の。
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凛は目を開けた。頬が濡れていた。
お母さん。あなたは私を装置から守るために、二十六年、ずっとひとりで闘っていたんだね。私が何も知らずに、普通の子でいられたのはあなたがすべてを隠して、背負ってくれていたからなんだね。
凛は初めて母を、ひとりの女性として思った。そしてもう一度、あの言葉を思い出した。「あなたは聞きすぎるのよ」。あれは叱責ではなく、祈りだったのだ。どうか聞こえませんように、という。
母に会いたいと思った。
まだ間に合うなら。




