第25話「母の沈黙」
凛は母に電話をかけた。
半年ぶりだった。美月が死んでから、凛は実家とも距離を置いていた。母とは、必要な連絡を事務的に交わすだけ。声を聞くのは久しぶりだった。
三回の呼び出し音のあと、母が出た。
「もしもし。凛? どうしたの急に」
いつもの母の声だった。少し疲れたけれど優しい。その声を聞いた瞬間、凛は何から訊けばいいのか分からなくなった。お母さん、あなたはmarie_1985なの。あなたは私に、呪いのテープを売ったの。あなたの旧姓は柳沢なの。私は、あの装置のために生まれたの。
訊きたいことが喉につかえて、言葉にならなかった。
凛はひとつだけ訊いた。「お母さん。柳沢美咲って人を知ってる?」
電話の向こうがしんと静まった。
長い沈黙だった。あまりにも長くて、凛は電話が切れたのかと思った。しかしかすかに母の息づかいが聞こえた。浅く速い息。動揺を抑え込もうとする息。
「……どこでその名前を」と母が言った。声が震えていた。
「知ってるんだね」と凛は言った。
「凛。それは、聞いてはいけない名前なの。お願い。今すぐそれを全部忘れて。何が届いても再生しないで。お願いだから――」
母の声に、別の音が混じりはじめた。
あの唸り。低い聞こえないはずの震え。電話越しに母の背後から。
凛は悟った。母のいる場所にもある。あの音が。母もずっとそれと共に生きてきたのだ。
「お母さん」と凛は言った。「もう四つ再生しちゃった。VHSもカセットも、MDもフロッピーも。全部」
電話の向こうで、母が息を呑む音がした。
そして母はたった一言言った。凛がこれまで聞いたことのない、絶望のこもった声で。
「……間に合わなかった」
母はその夜すべてを話した。電話越しに、二十六年分の沈黙をほどくように。
母――真理子は柳沢正臣の姪だった。十代の頃、病弱だったいとこの美咲とよく遊んだ。そして正臣が美咲に何をしているかを間近で見ていた、ただ一人の家族だった。
「叔父さんは本気だったの」と母は言った。「美咲ちゃんを音にして永遠にすれば、死なせずにすむって。あの人はそれを愛だと信じてた。でも美咲ちゃんは……怖がってた。ずっと。たすけてって私にも言ったのよ。でも私は子どもで、何もできなかった」
母の声を聞きながら、凛の視界がぐらりと傾いだ。
電話越しの声が遠ざかる。代わりに見たこともない光景が、凛の脳裏に、白昼夢のように流れ込んできた。あの超低周波が見せているのか。それとも母の記憶が血を伝って、凛に流れ込んでいるのか。
――一九九九年の柳沢家。
防音室。灰色の吸音楔。アップライトピアノ。その前に痩せ細った美咲。剥き出しになった細い腕に、無数の注射痕。点々と紫色に沈んだ痛々しい痕。そばに白衣の男が立っている。柳沢正臣。彼は娘を見ていない。正確には娘の「向こう」を見ている。娘が立てる音を振動をデータを。我が子の苦しむ顔ではなく、計器の針だけを見つめている。
幼い真理子が部屋の隅で、震えている。「みさきちゃんがかわいそう」と言いかけて叔父の、底のない目に口をつぐむ。正臣が静かに、機材のレバーを押し下げる。「これは愛だ」と彼は誰にともなく呟く。「いちばん美しい形で、この子を残してやるんだ」
美咲がこちらを見た。二十六年の時を超えて、まっすぐに凛を。たすけてと唇が動く――
「凛? 凛聞いてる?」
母の声で凛は現実に、引き戻された。全身に冷たい汗をかいていた。今のはなんだったのか。見たはずのない過去。でも細部まで生々しかった。注射痕の色も。正臣の計器だけを見る目も。
美咲は死んだ。正臣も後を追うように死んだ。装置は残った。
「叔父さんは死ぬ前に言ったの。美咲一人じゃ足りない。同期は完成しない。同じ血の次の器がいるって。柳沢の血を引く子どもがまた生まれたら――その子の振動を足せば、ムネモシュネは完成する、って」
凛は自分の心臓が冷えていくのを感じた。
「だから私は」と母は声を詰まらせた。「あなたが生まれたとき、怖かった。あなたが柳沢の血を引いてるから。いつか装置が、あなたを呼ぶんじゃないかって。だからずっと隠してきた。あなたをあの家から遠ざけて。普通に育てようとした。普通の佐々木凛として」
「……お母さん」凛の声が震えた。「私が子どもの頃、音に敏感すぎたとき。あなたいつも怖い顔をしてた。『あなたは聞きすぎる』って」
電話の向こうで母が息を呑んだ。「気づいていたのね」と消え入るような声で言った。「あなたは美咲ちゃんと、同じだった。人よりずっと深く音が響く子。あの共鳴特性を、あなたも受け継いでた。私はそれを見るたびに、怖くてたまらなかった。いつかこの子もと」
そこで母の声がふいに崩れた。
二十六年、抑えつづけてきたものが、いちどに、あふれた。
「ごめんなさい」
母は泣いていた。電話の向こうで。子どものように、しゃくりあげて。凛は、母の泣き声を聞いたことがなかった。いつも気丈で、少し過保護なだけの、あの母が。
「ごめんね。あなたに、こんな血を。こんな運命を……産むとき、決めてたの。今度こそ守るって。美咲ちゃんを助けられなかった分まで、あなただけは、って。
なのに、私……結局、また、何もできない。二十六年も、あったのに。ずっと、ずっと、考えてきたのに。あなたを守る方法なんて、ひとつも……見つけられなかった」
凛は何も言えなかった。受話器の向こうで、母が壊れたように泣いている。プラスチックの小さな震えになって耳に流れ込むその声は、重かった。重くて、痛かった。二十六年。言葉にすればそれだけの日々を、母はたった一人で、この足音に怯えながら、やり過ごしてきた。その孤独が、鼓膜を押してくる。
「お母さん」と凛はようやく言った。自分の声も震えていた。「もういいよ。ひとりで抱えなくていい。これからは私も、一緒に考えるから」
受話器の向こうで、母が息を詰まらせた。それから「うん」と小さく頷く気配がした。
rin.wav。生まれる前から用意された名。父――いや、大叔父の正臣が二十六年前に予約していた凛の器。
「でも止められなかった」と母は言った。「半年前、あなたのお友達が亡くなってから。あなたが人と関われなくなってから。装置が動きはじめたのが分かった。あなたの感覚が薄れていったのは、装置があなたを呼んでいたから。
だから私は、メディアを手放すしかなかった。
ほんとうは、壊してしまいたかった。燃やすなり、砕くなり。何度も、試したの。でも、できなかった。壊そうとすると……あの音が、家じゅうに鳴り響くの。耳をふさいでも、頭の芯まで突き刺さる。叔父さんの声が、やめろ、やめろって。一度なんて、ハンマーを振り上げた瞬間、自分の手首が、自分のものじゃないみたいに、止まった。あの装置は、自分が壊されることを、許さない。
だから、手放すしかなかった。あなたの目に触れる前に、誰か別の人のところへ行くように、って。でも――」
でもそれは凛のところへ届いた。
偶然ではなかった。装置はちゃんと血をたどって、本来の器のもとへ、自分の記録を引き寄せたのだ。
凛はようやく理解した。自分が買ったのではない。呼ばれたのだ。最初から。




