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第24話「血の名前」

 その夜、凛はすべてをつなぎ合わせた。


 父・柳沢正臣。意識を音に変える装置、ムネモシュネ。被験者にされた娘美咲。「たすけて」と訴えた少女。父と娘の死。そして二十六年後の今、メディアを届け続ける誰か。


 rin.wav。生まれる前から用意されていた、自分の名。


 凛はもう一度、フリマアプリを開いた。消えたはずのmarie_1985のアカウント。けれど取引の記録だけは凛の画面に残っていた。発送元の情報。それを凛ははじめてきちんと見た。


 発送元の住所は空欄だった。けれど登録名の欄に消し忘れた本名が、わずかに残っていた。


 柳沢真理子。


 marie。真理まり。一九八五年。


 凛はその生年に引っかかった。一九八五年生まれ。だとすれば真理子は今四十一歳。しかし――美咲の母親にしては、若すぎる。一九九九年に十四歳の娘がいた母親が、一九八五年生まれのはずがない。


 計算が合わない。


 では、marie_1985の「1985」は何なのか。真理子の生年ではないとしたら。


 こわばる指で検索した。柳沢真理子。一九八五。


 一件だけ出てきた。古い新聞記事のアーカイブ。柳沢家のことではなかった。それは――


 凛の母の旧姓と生年だった。


 佐々木ではない。結婚前の母の名。凛が見たことのある、母の戸籍の名前。一九八五年生まれ。旧姓――柳沢。


 凛の手から、スマートフォンが滑り落ちた。床に当たって乾いた音を立てた。その音さえほんの一拍、遅れて耳に届いた。


 marie_1985は、美咲の母ではなかった。


 凛の母だった。


 頭が真っ白になった。理解が追いつかない。母が。あのごく普通の、少し過保護なだけの母が。このテープを自分に、送りつけていた。「呪い」と書かれたあのVHSを。「次が届きます」と書き残したあの人が。


 いや――違う。凛は必死に考えた。母は送りつけたのではない。手放そうとしたのだ。「これを再生できる人のところへ、届きますように」。あれは呪いを、誰かに押しつける言葉ではなく。娘から遠ざけようとする、祈りだったのかもしれない。


 けれど、と凛はもう一つの違和感に行き当たった。


 二十六年、すべてを隠し通してきた母が。柳沢の名を、過去を、あれほど周到に消してきた母が。どうしてこんな、自分の旧姓と生年そのままのアカウント名を使ったのか。発送元に、消し忘れた本名を残したのか。あまりに、不用意すぎる。隠すと決めた人間の、やり方ではなかった。


 そこまで考えて、凛の背を冷たいものが這い上がった。


 ――母が、書いたんじゃない。


 あの装置が。ムネモシュネが。裏で、書き換えたのだ。消したはずの本名を、空欄だったはずの登録情報を、画面の上にそっと浮かび上がらせて。凛がこの取引画面に目を留め、自分で「柳沢真理子」という名に、血のつながりに、たどり着くように。母が懸命に消したものを、装置が一つずつ、書き戻していた。器を、最後の真実へ導くために。


 けれどなぜ。なぜ母がこんなものを、持っていたのか。


 答えはひとつしかなかった。


 もし母の旧姓が柳沢なら。母は柳沢家の人間。美咲と同じ血。柳沢正臣の――姪か、あるいはもっと近い誰か。


 凛は床に膝をついたまま、動けなかった。全身が小刻みに震えていた。寒さではなかった。自分の足元が根こそぎ、崩れていく感覚。自分は何者なのか。佐々木凛という、ありふれた女子大生。それは仮の姿だったのか。本当は生まれる前から、このおぞましい計画の最後のピースとして、用意されていた存在だったのか。


 rin.wav。生まれる前から用意されていた、名。


 あのフロッピーのラベルを、思い出す。父――いやまだ顔も知らない、大叔父かもしれないその男が、二十六年前まだ影も形もなかった凛の名を、すでに書いていた。生まれてくる子にその名を、つけさせるように。仕向けるように。


 偶然ではなかった。何ひとつ。親友を喪ったことも。感覚が鈍麻したことも。フリマアプリであのテープに、目を留めたことも。すべては二十六年前から敷かれていた、レールの上の出来事だった。


 凛は自分が何者なのか、その本当の意味を、はじめて理解しはじめていた。


 自分は最後の器。ムネモシュネを完成させるために、生まれてきた。


 二十六年前から、凛はこのムネモシュネの計画の一部だったのだ。


 そしてその計画を誰よりも知りながら、二十六年たった一人で、抗ってきた人がいた。


 お母さん。


 凛は震える手で、滑り落ちたスマートフォンを拾い上げた。母に電話をかけるために。

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