第22話「八秒の矛盾」
郵便受けに差し込まれていたのは、薄い封筒だった。もうその感触にも慣れてしまった。凛はためらわずに取りに行った。美波は帰らずに、部屋に残っていた。「先輩を一人にできません」と彼女は言った。その言葉が、凛にはありがたかった。半年ぶりに、誰かが自分のためにここにいてくれる。さっき見つけた、消えていった「ハル」のことは、まだ美波には言えずにいた。
封筒の中身は、薄い四角いプラスチックの板。中央に丸い金属のシャッター。
「フロッピーディスク」と美波が言った。「これは、さすがに私も実物ははじめて見ました。音楽用じゃないですよね。データを保存するやつです」
ラベルにはまた父の几帳面な字。
『rin.wav』
凛はその文字を見て固まった。
rin。りん。自分の名前。二十六年前に書かれたはずのこのラベルに。まだ生まれてもいなかった、自分の名前が。
凛は自分の名前を思った。佐々木凛。母がつけてくれた名前。なんの変哲もない、好きでも嫌いでもない自分の名前。それが生まれる二十六年も前に、見知らぬ男の手で、フロッピーのラベルに書かれていた。
ということは。母が凛にこの名をつけたのは、偶然ではなかった。そうつけるように、仕向けられていた。あるいは母自身が、何かに強いられて。「凛」という名は凛のものである前に、この器に貼られるべき、ラベルだったのだ。商品に出荷前から、貼られている品名のように。
自分という存在の、いちばん根っこ。名前。それすら自分のものでは、なかったのかもしれない。凛は足元がぐらりと、揺らぐのを感じた。
「……これ先輩の名前ですよね」と美波が声をひそめた。「なんで。なんで先輩の名前が」
答えはなかった。それでもその一行がすべてを変えた。これはもう見知らぬ誰かの悲劇ではない。柳沢家の過去の話ではない。これは――凛の話だった。最初から。
美波が古いノートパソコンに外付けのドライブをつないだ。フロッピーを差し込む。ガコガコ、とドライブがけたたましく音を立てて、ディスクを読みはじめた。
中には音声ファイルが一つ。rin.wav。
「再生します」と美波が言った。凛は頷いた。
ファイルを開く。音が流れはじめた。
最初はただのノイズだった。低い唸り。でもそれはなかなか終わらなかった。
美波がファイルの情報を見て、眉をひそめた。
「先輩。このファイル容量、一・二メガしかないんです。この古さのWAVなら……長くても、八秒で終わるはずなんです」
けれど音は鳴り続けていた。
一分。二分。五分。八秒どころか十分が過ぎても、唸りは止まらなかった。一・二メガのファイルから。物理的にありえない長さの音が。
「おかしい。おかしいですよこれ」
美波の声が上ずっていた。彼女はファイルを波形編集のソフトで開いた。中身を目で確かめるために。
画面に波形が表示された。
可聴域の波はほとんどなかった。耳に聞こえる音はわずか。しかし――そのずっと下。本来なら何もないはずの、超低周波の領域に。
巨大な波が横たわっていた。
うねり脈打ち、画面の端から端まで続いている。美波が表示を縮小する。波はまだ続く。さらに縮小する。まだ続く。終わりがない。一・二メガのファイルの中に、無限に続く波が巻き込まれていた。
有限の入れ物に、無限が詰まっている。
その事実が凛の理性を軋ませた。一・二メガ。今ならメールに添付すれば、一瞬で送り終わる、ほんの数秒ぶんの音。その数秒の死骸のなかに、二十六年分の少女の孤独が、引き伸ばされ、折りたたまれ、永遠に鳴り響いていた。無響室に閉じ込められた美咲の、終わりのない時間が、まるごと。このファイルは、その器であり、写し身だった。
聞いているだけで、凛の頭の奥が締めつけられた。こめかみが脈に合わせて、ずきずきと痛む。無限の波が耳からではなく、骨から直接流れ込んでくる。終わりがないということが、これほど恐ろしいとは。凛は再生を止めようと、手を伸ばした。だが停止ボタンを押しても――唸りは、止まらなかった。プレーヤーは止まったのに、音だけが部屋に残り続けていた。
「これが……」と凛はつぶやいた。「これが、ずっと私を蝕んでいた音」
はじめてそれが目に見えた。
聞こえないはずの音。体だけが知っていた音。誰かがいると感じさせていた音。理由のない涙を流させていた音。それが今、画面の上に波形として横たわっている。形を持って。見えるものとして。
美波がその波形をじっと見つめていた。それからある操作をした。波形の一部を拡大する。脈打つうねりのひとつを、引き伸ばして。
その波の形が。
人の横顔に見えた。
喉の奥で、ひゅっと空気が鳴った。気のせいではなかった。なだらかな額。落ちくぼんだ目元。こけた頬。薄い唇。
あの少女の横顔だった。
音の波が美咲の顔を描いていた。
見た瞬間凛の首の後ろが、ぞわりと粟立った。鈍っていたはずの肌が、はっきりと冷えていく。喉が干上がり唾を飲もうとして、飲めなかった。画面を見ているだけなのに、見られていると体が確信していた。
「美波……これ見える?」
凛が訊くと美波は答えなかった。
振り返って凛は息を呑んだ。美波の顔から、血の気が引いていた。いつも怪異を前にしても、どこか面白がる余裕のあったあの美波が。今は画面を凝視したまま、小刻みに震えていた。マウスを握る手が、白くなるほど力んでいる。
「先輩」と美波が掠れた声で言った。「私さっき……ひとりで、これ解析してたんです。先輩が寝てる間に。そのとき……」
美波はヘッドホンを外した。耳から引き剝がすように。
「録音したんです。この部屋の音を。自分の声でメモも入れながら。"二十二時四十分、低周波の指向性を確認"って。なのに……再生したら、私の声が入ってなかった。メモのところだけぜんぶ無音で。波形はあるんです。私が喋った分の波形は。でも音だけがない。私の声だけが……抜き取られてた」
凛の背筋が凍った。
美波の声が消えはじめている。凛のときと同じだ。いや――凛よりずっと速い。
「こわい」と美波がはじめて言った。いつもの明るさはなかった。ただの二十歳の、女の子の声だった。「先輩。私こわいです。これ……私もあの子みたいに、なるんですか。音になって消えるんですか」
凛はとっさに美波の手を握った。冷たかった。震えていた。なんと言えばいいのか、分からなかった。大丈夫だと言えるだけの、根拠がどこにもなかったから。
それでも凛は言った。「させない。あなたは私が絶対に、音になんてさせない」
言いながら凛は思っていた。この子を巻き込んでしまった。私が頼ってしまったから。この子の明るさに、甘えてしまったから。
画面の中ではまだ美咲の横顔の波形が、こちらを見ていた。次の獲物を品定めするように。




