第20話「観察記録」
その夜凛は眠れなかった。
父の――いや大叔父の、柳沢正臣の声が頭から離れなかった。あの優しくておぞましい声。もっと知りたかった。この男が何を考えて、娘を音に変えたのか。
凛はもう一度、ネットの海に潜った。柳沢正臣。意識。固有振動。今度は学会のアーカイブの、さらに奥。引用のそのまた引用。リンクの切れた、古いページの魚拓。何時間もたどっていった。
そして見つけた。
どこかの大学のサーバーの片隅に放置されていた、スキャンデータ。表題は『観察記録』。筆跡はあのMDのラベルと同じ。几帳面で神経質な黒い字。柳沢正臣の研究日誌だった。
凛は震える指でそれを開いた。
日付を追って文字が並んでいた。
『一九九八年四月。娘・美咲入院。医師の見立ては芳しくない。だが私は諦めない。美咲の意識を、固有振動として完全記録できれば、肉体の死は問題でなくなる。研究を加速させる』
最初はまだ父親の、焦りのようなものが滲んでいた。娘を失いたくない。その一心。凛はわずかに同情しかけた。
けれど日付が進むにつれて、記述は変わっていった。
『七月。美咲の咳の周波数を解析。病が進むほど雑音成分が減り、基音が澄んでくる。興味深い。衰弱がかえって、記録精度を上げている』
衰弱が記録精度を上げている。背すじが粟立った。これは娘の病状を喜んでいる。
『一九九九年一月。防音室での収録を開始。外部雑音を完全に排除した環境では、美咲の意識振動が、驚くほど明瞭に記録できる。美咲は当初暗い、怖いと泣いたが慣れだ。芸術には、孤独が必要なのだから』
慣れだ。泣く娘を前にして。
『一九九九年二月。美咲面会を拒むようになる。私を見るとおびえる。母親は私を責める。誰も分かっていない。私はこの子を、永遠にしてやろうとしているのだ。これ以上の愛があるか』
その少し後に日付のない、走り書きのような一節が挟まっていた。それまでの几帳面な字とは違う、乱れた筆跡で。
『私は知っている。人は死ぬ。失われる。私の母もそうだった。最期の朝、母は私の名を呼んだ。何か言いかけた。私は仕事の手を止めなかった。あとで聞けばいい、と思った。あとで、はもう来なかった。母の最後の声を、私は録っていなかった。覚えてすらいない。どんな声だったか。何を言おうとしたのか。声というものは、こんなにも簡単に、永遠に消える。あのとき、なぜ録音しておかなかったのか。残しておけば。そうすれば私は母を、失わずにすんだ』
『美咲を失いたくない。あの咳が、あの寝息が、あのたどたどしいピアノが、消えてしまうのが耐えられない。だから録る。すべて録る。一音も、取りこぼさない。音にしてしまえば、もう二度と、あの朝のようには失わない。これは愛だ。失うことへの恐怖に勝つ、ただ一つの方法なのだ』
凛はその一節に、息を詰めた。同時にほんのわずか、理解できてしまう自分がいた。失うのが怖い。だから記録する。残しておけば失わずにすむ。それは――凛自身が美月の写真や、留守電にすがった気持ちと、根は同じだった。
ただ正臣はその恐怖に呑まれた。娘という生きた人間を音という、動かない記録に変えてまで。失うことを拒んだ。生きている娘を、殺してでも永遠の記録にしようとした。愛と恐怖と狂気の見分けが、つかなくなるところまで。
ページをめくる手が、止まらなかった。日誌の文字は回を追うごとに、父親の言葉から研究者の言葉へ、そして――何か人でないものの、言葉へと変わっていった。娘の名前がだんだん、出てこなくなる。代わりに「被験体」「音源」「記録対象」という言葉が増えていく。
そして最後のほうの一頁。
『美咲の振動だけでは、同期は完成しない。一個体の記録では、定在波が安定しない。複数の同じ固有振動を持つ個体――すなわち、同じ血脈の者を、束ねる必要がある。妻は適合しなかった。ならば次の代だ。美咲と同じ血を引く子が、いずれ生まれる。その子の振動を加えれば、ムネモシュネは完成する。私はそれまでこの装置の中で、待つとしよう』
凛の手が震えた。
妻は適合しなかった。さらりと書かれたその一行。正臣は妻すら、実験の対象として見ていた。そして適合しないと分かると、ただ切り捨てた。次の器を待つために。
次の代。同じ血を引く子。
それが凛だった。
日誌のいちばん最後。日付のない走り書きで、こう記されていた。インクの色がそれだけ違った。まるでずっと後に、書き足されたように。
『来た。やっと来た。最後の器が。長かった。さあおいで。家族でひとつの音になろう』
二十六年前に死んだはずの男の文字が、まるで今の凛に、宛てて書かれていた。
いや――と凛は思い、ぞっとした。死んだはず、ではない。この男は死んでなどいない。娘を音に変えたあと、自分も同じようにこの装置の中へ入ったのだ。肉体を捨て、音になって。最後の器が育つのを、二十六年、ひたすら待ちながら。だからこの日誌の最後の一行は、死者の遺言ではない。今も装置の中で生きている男の、現在進行形の呼び声だった。
凛はスマートフォンを伏せた。これ以上読めなかった。
この男は人間ではなかった。いや――人間だった。人間だったからこそ、恐ろしかった。娘を愛する気持ちと、娘を実験体として観察する目が同じ一人の中に、矛盾なく同居していた。愛がそのまま狂気だった。その境目がどこにもなかった。
凛ははじめて心の底からこの男を、止めなければならないと思った。同情の余地は、もうなかった。
そして、ふと思った。
この男は今も、装置の中で待っている。二十六年、ずっと。最後の器が来るのを。
さっき読んだあの一行が――来た、やっと来た、という呼び声が、耳の奥でこだました。まるで、すぐ後ろで囁かれたように。凛は反射的に振り返った。誰もいない。けれど部屋の空気が、ほんの少しだけ、揺れた気がした。




